眩暈かなと思っていたら、ニュースで地震だと。自分にジシンが持てなくなってきた。




2004ソスN9ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0292004

 鬼やんまとんぼ返りをして去りぬ

                           田代青山

語は「やんま」で秋。「蜻蛉(とんぼ)」に分類。蜻蛉のなかでも、近年とくに見かけなくなったのが「(鬼)やんま」だ。全国的な都市化、環境破壊のせいである。たまに見かけると、「おっ」ではなく「おおっ」と思う。掲句にはまた別の意味で「おおっ」と思った。「とんぼ返り」といえば歌舞伎でのそれを指したり、「♪とんぼ返りで今年も暮れた」などと用いる。むろん誰もがこの言葉が蜻蛉の生態から来ていることは知っていようが、普通にはこれら比喩的な表現のほうが主となっていて、もはや本家のほうは忘れられているに等しい。「とんぼ返り」と聞いて、蜻蛉の姿を思い浮かべることはないのである。ところが作者はこれを逆手に取って、蜻蛉(鬼やんま)そのものにとんぼ返りをさせている。つまり、言葉の本義をそっくり元通りに再現してみせたわけだ。当たり前じゃないか、などと鼻白むなかれ。当たり前は当たり前だとしても、実際にこうして本物のとんぼ返りを確認したときに、ふっと湧いてくる新鮮な心持ちのほうに入り込んで読むべきだろう。そしてまた、当たり前が見事に当たり前であるときに感じる可笑しさのほうにも……。あっけらかんとした詠みぶりも良い。鬼やんまの生態に、ぴしゃりと適っている。『人魚』(1998)所収。(清水哲男)


September 0192004

 二通目の手紙大切いわし雲

                           ふけとしこ

語は「いわし雲(鰯雲)」で秋。「鱗(うろこ)雲」、「鯖(さば)雲」とも。「秋天、鰯先よらんとする時、一片の白雲あり、その雲、段々として、波のごとし、是を鰯雲と云」(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』)。秋を代表する美しい雲だ。掲句の「二通目の手紙」には、ちょっと迷った。最初は同一人から連続して配達されてきた二通目だろうかとも考えたが、いわし雲との取り合わせがいまひとつ不明確。抽象的なレベルでの相関関係も探ってみたけれど、探るうちに、素直に戸外での情景と読むほうが面白いと思えてきた。良く晴れた秋空の下、作者は手紙を投函しに行く途中である。何通かの手紙を手にしていて、そのうちの「二通目」が大事なのである。言われてみれば、私なども大事な手紙は数通の間に挟んで出しに行く。直接、表にはさらさない。宛名書きを汚してはいけないとか、何かに引っかけて破いてはいけないとか、そうした配慮が自然に働くからだ。そして、手紙を書くとは何事かの決着をつけるためであり、それを投函することで書いた側の一応の決着が着くことになる。深刻な内容のものならばなおさらではあるが、軽い挨拶程度の手紙でも、決着という意味では同じことだろう。句の「いわし雲」はもとより実景だが、心理的には決着をつける心地よさが反映されていると読んだ。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


August 3182004

 ひらひらと猫が乳呑む厄日かな

                           秋元不死男

句で「厄日(やくび)」といえば「二百十日」のこと、秋の季語。今年は閏年なので、今日にあたる。ちょうど稲の開花期のため、農民が激しい風雨を恐れて「厄日」としたものだ。その恐れが農家以外の人々にもストレートに伝わっていたのだから、この国の生活がいかに農業に密着していたかがよくわかる。今年は台風の当たり年。折しも大型の台風が九州を抜け日本海側を通過中で、それらの地方では暦通りの厄日となってしまった。掲句に風雨のことは一切出てこないけれど、そんな台風圏のなかでの作句だろう。表は強い風と雨にさらされていて、薄暗い家の中に籠っているのは作者と猫だけだ。猫もさすがに少しおびえたふうで、ミルク(乳)を与えると大人しく呑んでいる。こういうときには、生き物同士としての親密感が湧くものだ。そして、か弱いものを守ってやろうという保護者意識も……。だから、普段は気にすることもない猫の食事を、作者はじっと眺めている。「ひらひらと」は猫が乳を舐める舌の様子でもあり、自然の猛威の中ではなんとも頼りない猫の存在と、そして作者自身の心理状態でもあるだろう。ひらひらと吹けば飛ぶよな猫と我、と昔の人なら言ったところだ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます