また台風襲来、19号も発生。今年は異常だ。進路にあたる方々のご無事をお祈りします。




2004ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0692004

 台風の去つて玄界灘の月

                           中村吉右衛門

者は初代の吉右衛門。俳号は秀山、虚子その他の文人と親交があった。台風一過。というと、たいていの人は白昼の青空をイメージするのに、あえて夜の空を詠んでみせたところがニクい。おぬし、できるな。それも、普段でも波の荒いことで知られる玄界灘だ。台風が去ったとはいっても、真っ暗な海はさぞかし大荒れだろう。その空にぽっかりと上がった煌々たる月影。さながら芝居の書割りのごとくに鮮明で、しかるがゆえに壮絶にして悲愴な情景と写る。句に、嫌みはない。「玄界灘」と聞くと、私はうろ覚えながら戦後の流行歌の一節を思い出す。「♪どうせオイラは玄界灘の波に浮き寝のカモメ鳥」というフレーズがあって、メロディだけは全部覚えている。この歌は、親友の兄貴が好きだった。彼は下関港から出漁する漁師だったが、実家のある私たちの村にやってきたときに、当時はやった素人のど自慢会などに出ては、この歌を陶酔したような表情で歌ったものだった。美男にして美声だったから、村の若い女性に人気があったようだ。ずいぶん年上の人に見えていたけれど、おそらく二十歳そこそこだったのだろう。友人も、そんな兄貴を誇らしく思い自慢していた。が、彼は嫁さんももらわないうちに、それこそ玄界灘で船が転覆して、あっけなくこの世から去ってしまった。訃報の季節は覚えていない。もしも彼が生きていたら、この句の月の見事さを陶酔したような表情で語ってくれそうな気がする。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0592004

 銀シャリてふ眩しき死語や今年米

                           岡田飛鳥子

語は「今年米」で秋。新米のこと。「死語」と言われれば、なるほど「銀シャリ」という言葉が聞かれなくなって久しい。「シャリ」は今でも鮨屋が使うが、一般的には特別に「銀」を冠する理由がもはや無くなってしまったからだ。しかし作者は、新米の季節になる度にこの言葉を眩しく思い出し、同時に隔世の感に茫となるのである。それほどに、何も混ぜていない米だけで炊き上げたご飯への渇望は、とりわけて戦中戦後に強かった。このことについての私の体験は何度も書いたので、今回は弦書房(九州)のサイトにある原弘「昭和の子」というコラムから、該当部分の一部を引用しておく。「玄関横の六畳間に新婚の映写技師夫婦が間借りすることになった。映画は戦後の最大の娯楽だった。どこの映画館も、どんな作品がかかっても超満員のようで、当時の映写技師は格段に羽振りがよかった。『支配人や館主よりも映写技師が威張っている』と言われる時代だった。/日暮れ時、表で遊んでいると、その映写技師の六畳間から銀シャリの炊ける何とも言えない香ばしいかおりが流れてきた。空腹と銀シャリへの憧れを抱いていた僕は、その香りに吸い寄せられるようにたまらず勝手知ったる映写技師の部屋に忍び込んでいた。/電熱器のうえの鍋では、ご飯が炊きあがったばかりのようで、部屋中に香ばしいかおりが充満していた。気がついたときには手近の杓子で、顔にまとわりつく湯気を払いのけるようにしてまじっりっ気のない真っ白いご飯をすくいとって口にしていた。/しかし、久しぶりに味わった銀シャリの味は記憶にない。一瞬後、自分のやったことに気づいて愕然とし、僕はあわてて逃げだした。……」。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 0492004

 ひるがほに紙の日の丸掛かりをり

                           吉田汀史

語は「ひるがほ(昼顔)」で夏。ちなみに「朝顔」は秋。まだ近所には咲いているが、そろそろ「昼顔」もお終いだろう。育てる人がいない野生の花だけに、いつの間にか咲き始め、いつの間にか終わってしまうという印象が濃い。典型的な路傍の花である。そんな打ち捨てられたような花に、これまた打ち捨てられた「紙の日の丸」が掛かっている。夕刻になれば紙くずのようになってしまう昼顔と、もはや紙くずと化した日の丸と。もちろん昼顔に掛かっているのは偶然だが、この取り合わせは哀れを誘う。何かの催事に使われた紙の旗が吹き寄せられてきたのだろうか、それとも子供が捨てた手製の旗だろうか。何にせよ、すぐにくしゃくしゃになってしまうもの同士が、こうしてしばし身を寄せ合っているのかと見れば、哀れさは一入だ。ましてや、片方はチラシ広告や新聞の切れ端などではなくて国旗である。ある程度以上の年代の人にとっては、現在の国旗観がどのようなものであれ、路傍に放棄された姿には一瞥チクリと来るものがあるにちがいない。単なる紙くずとは思えないのだ。だから掲句は、読む者の世代によって哀れの色彩がかなり異なるとは言えそうだ。「紙の日の丸」と、わざわざ「紙の」と表記したところにも、作者の年代がおのずから浮き上がっている。俳誌「航標」(2004年9月号)所載。(清水哲男)




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