ノ冬q句

September 1092004

 月白をただぼんやりと家族かな

                           伊藤淳子

語は「月白(つきしろ)」で秋。月の出に、空がほんのりと白く明るんでくること。「月」に分類。今宵も東の空が白みはじめて、そろそろ月の上ってくるころになった。でも、「家族」は「ただぼんやりと」しているだけだ。とくに風流心を起こすわけでもないし、第一「月白」の空に気づいているのかどうかすらもわからない。漫然と、いつもと変わらぬ家族の時間が流れているのみである。つまり、日常的にこういう「ぼんやりと」した時間を共有しているのが家族というものだ。作者は、そう言っているのだろう。家族間に大事でもない限り、家族として過ごす時間はさして意識されることがない。月の出程度の現象に、いちいち鋭敏に反応したりなどはしないのである。最も心安い間柄とは、最も鈍い感覚や感情に安んじることが許されるそれではないだろうか。私の高校時代に、田中絹代が唯一度監督した『月は上りぬ』という映画があった。奈良で暮らす老夫婦と娘二人の平凡な家族の物語だ。うろ覚えだが、たしかラストシーンは、老夫婦が縁側でしみじみと古都に上ってくる月を見上げる場面だったと思う。この場合に家族はぼんやりとしていないわけだが、それは姉娘の結婚話がやっとうまくいったという「大事」があったからである。何事も無ければ、この家族もまた句のように「ただぼんやりと」していただけだろう。そんなことを、ふっと思わされた。『夏白波』(2003)所収。(清水哲男)


November 27112007

 冬眠のはじまりガラスが先ず曇る

                           伊藤淳子

間には冬眠という習慣がないので、それが一体どういうものなのかは想像するしかないが、「長い冬を夢のなかで過ごし、春の訪れとともに目覚める」というのは、たいへん安楽で羨ましく思う。しかし、実際は「眠り」というより、どちらかというと「仮死」に近い状態なのだという。消費エネルギーを最小限に切り替えるため、シマリスでいえば、呼吸は20秒に一回、体温はたった3度から8度になるというから、冬眠中安穏と花畑を駆け回る夢を見ているとは到底想像しがたい。また、冬眠は入るより覚める方が大きなエネルギーを必要とするらしく、無理矢理起こすのはたいへん危険だそうだ。環境が不適切だったためうまく目覚めることができず死に至るケースもあると知った。日常の呼吸から間遠な呼吸へ切り替えていく眠りの世界へのカウントダウンは、だんだんと遠くに行ってしまう者を見送っているような気持ちだろう。ひそやかな呼吸による規則正しいガラスの曇りだけが、生きていることのたったひとつの証となる。〈草いきれ海流どこか寝覚めのよう〉〈漂流がはじまる春の本気かな〉『夏白波』(2003)所収。(土肥あき子)


May 1552010

 麦秋をうすく遊んでもどりけり

                           伊藤淳子

句は自分にとって遊びかな、とふと思う。仕事と遊びに分類するなら、今もこれから先も間違いなく遊びだが、遊び、というと、ちょっと適当っぽいニュアンスが漂う。かといって、真剣な遊び、などという言い方はあまり好きではないし、と考えがまとまらない。掲出句、さらりとうすく遊んできたという作者である。麦秋、が心地よい時間を、もどりけり、がほどよい疲れを思わせる。たとえばそれが吟行旅行だとしても、ともかく何でも見ておかなくては、俳句にしなければ、などと考えず、目に映るもの、肌で感じるものを楽しみながら、時間の流れに身をまかせるような過ごし方のできる作者なのだ。やはり俳句は私にとっては、遊び、という言葉のゆとりの意味合いも含めて、一生楽しめる遊びだろう。『夏白波』(2003)所収。(今井肖子)




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