悪夢のようなニュースがつづく。夢ならば醒めてくれと、犯罪者こそ思っているだろう。




2004ソスN9ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1592004

 大欅祭に晴れて小鳥来る

                           小林之翹

語は「小鳥来る」で秋。当歳時記では「渡り鳥」に分類。最近、森澄雄さんからいただいた随想集『俳句遊心』(2004.ふらんす堂)に載っていた句だ。この句について、森さんは次のように書いている。「原句は『祭日晴れて』であった。『祭日』は単なる祝日ではなく、その地方の祭りの日ととって『祭に』とした。そうすることによって、祭りの日の好晴とともに大欅の姿もはっきりするし、一句の空間も豊かになると考えたからだが、作者の意図は祭日を祝日の一日として、この率直な表現の明るさにも心ひかれ、なお忸怩たる想いも残っている。作者及び読者はいずれをよしとされるだろうか」(「臍峠」)。句としては、私は森さんの「添削句」のほうが格段に良いと思った。「祭日晴れて」でも悪くはないが、いささかピントが甘いからだ。ただし、「祭日晴れて」と「祭に晴れて」では、まったくシチュエーションが違うので、添削句は作者の意図を歪曲していると言わざるを得ない。私は文芸作品への添削それ自体を認めないが、百歩譲っても、添削は作者の意図を生かす方向でなされなければならないだろう。掲句の場合、作者が地元の祭りを詠んでいないことは明らかだ。したがって添削を受けた作者にとって、この句はなんだか他人の作のように感じられるはずである。森さんの「忸怩たる想い」も、おそらくはそのあたりから来ているのだと思う。当サイトの読者諸兄姉は、それこそ「いずれをよしとされるだろうか」。(清水哲男)


September 1492004

 障子貼る母の手さばき妻の敵

                           草間時彦

語は「障子貼る」で秋。といっても障子貼りは冬支度だから、もう少し先、晩秋の季語だ。当歳時記では便宜上、紙を貼る前の「障子洗ふ」に分類しておく。これはまた、言いにくいことをずばりと言ってのけた句だ。二世代同居の家庭では、嫁と姑の微妙な心理的確執はなかなか避けられまい。両者とも表面的には仲が良さそうに見えても、内実は大変なのだという句である。障子を貼る母には、おそらく何の屈託も無いだろう。見事な「手さばき」で手際よく次々に貼っていく。息子の作者としても、見惚れるほどの巧みさなのだ。だがしかし、妻には欠けているこうした見事な技術が、実は「妻の敵」として「母」を位置づけてしまう哀しさがある。障子貼りに限らず、気にしはじめればキリがないほどに、こういうことが日常的にいろいろと起きている。妻がまさか義母を「敵」などと言うはずもないのだけれど、はっきり言えばそういうことだと、作者は憮然としているのである。しかも上手な解決法などありはしないから、一つ一つをやり過ごしてゆくしかないのだ。子供の頃から母は自分の「味方」であり、現在は妻もむろん「味方」である。だからといって気楽なものだと言えないところに、この句の苦さがある。ぼんやりしているようでいて、男だってけっこう細かいところを見て感じているということだ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


September 1392004

 これは何これは磯菊しづかな海

                           川崎展宏

語は「磯菊(いそぎく)」で秋。野菊の一種なので「野菊」に分類。海岸の岩地や崖などに群生する。ただし、咲くのは関東南部から静岡県御前崎の海岸あたりまでというから、名前は何となく知っていても、実物を見たことが無い人のほうが多いだろう。作者もその一人だったようで、はじめて見る花の名前を「これは何」と土地の誰かに尋ねたのである。で、すぐ返ってきた答えが「これは磯菊」だった。そうか、これが話に聞いていた磯菊か……。あらためて見つめ直す作者の周辺には、秋の「しづかな海」がどこまでもひろがっている。「これは何これは磯菊」と歯切れの良い調子で出ているだけに、一見平凡な「しづかな海」という表現が生きてくる。それまでのやや性急に畳み掛けるような調子を、大きくゆったりと受け止める効果が生まれるからだろう。そして「しづかな海」はただ波の静けさだけを言うのではなく、夏の間のにぎわいが引いて行った雰囲気を含んでいる。私は読んだ途端に、流行したトワ・エ・モアの『誰もいない海』を思い出した。♪今はもう秋 誰もいない海……。この後につづく歌詞はいただけないけれど、内藤法美の曲はけだし名曲と言ってよい。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)




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