オリックス球団がHPの掲示板を閉鎖。最近荒れてきたのが理由で、ストとは無関係だと。




2004ソスN9ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2092004

 われらただのぢぢばばながら敬老日

                           新津香芽代

、そういうこってすな。先日居住している三鷹市の健康福祉部高齢者支援室なるところから、高齢者生活実態調査なるアンケート用紙が郵送されてきた。65歳以上の市民のなかから、無作為に選んだ一万人を対象にしたという。封筒を開けたら色違いの二通の調査票が入っていて、一通は本人が答えるもの、もう一通は家族が答えるものだった。これにはちょっとショックだったが、なるほど高齢者の場合には本人だけの回答では「実態」が客観的に把握できない可能性も高いのだろう。やむを得ないことながら、「ただのぢぢばば」というだけで、人はかくのごとくに世間から不信の目を向けられているのである。つくづく「トシはとりたくねえな」と思った。ちなみに、本人向けにはこんな質問が……。(1)金銭管理は一人でできますか。(2)買い物は一人でできますか。(3)内服薬の管理は一人でできますか。(4)食事の用意は一人でできますか。(5)掃除や洗濯は一人でできますか。さらには「あなたは、趣味のグループ、町内会、自治会、住民協議会、老人クラブ、またはその他のあつまりに何回くらい参加していますか」等々、質問の背後から自治体の考える理想的な老人像がほの見えてきて、答えているうちにだんだん憂鬱になってしまった。結局、アンケートには応じなかった。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


September 1992004

 鳥渡る旅にゐて猶旅を恋ふ

                           能村登四郎

語は「鳥渡る」で秋。登四郎最晩年八十九歳の句、死の前年の作句である。若い身空で旅にあっても、ときにこういう感興を覚えることがあるが、老いてからのそれは一入だろう。澄んだ秋空を渡ってくる鳥たちを見上げていると、その元気さ、その自由さに羨望の念を覚え、旅先であるのに猶(なお)さらなる遠くへの旅を「恋ふ」気持ちがこみ上げてくるのだ。もはや渡り鳥のようには元気でもなく自由もきかない我が身にとっては、今度のこの旅が最後になるかもしれない。そうした懸念とおそれがあるので、なおさらに鳥たちの勇躍たる飛翔が目にまぶしく感じられる。同じころの句に「啄木鳥や木に嘴あてて何もせず」があり、こちらは何もしないでいる「啄木鳥(きつつき)」に老いた我が身を重ねあわせたものだ。あのいつも陽気で騒がしい鳥にも、じっと黙して動かない時間がある……。一見ユーモラスではあるけれど、何か名状しがたい苦さがじわりと読み手に沁み入ってくる。高齢者の句には総じて淡白なものが多いように思うが、見られるように登四郎の句にはなお作品的な色気がある。人によりけりなのではあろうけれど、妙な言い方をしておけば、登四郎には最後まで読者を意識したサービス精神があったということだ。その道のプロは、かくありたいものだ。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)


September 1892004

 包丁に載せて出されし試食梨

                           森田六合彦

語は「梨」で秋。俳句を読んでいると、ときたま懐かしい光景に出会うことがあり、これもまた俳句の楽しさだ。俳句の文芸的な味わいはもとより大切だが、一方で時代のスナッブ写真的機能も大切である。この句は、私の少年期を思い出させてくれた。作者のいる場所などはわからないが、懐かしいなあ、初物の梨などはこうやって「どうだ、食べてみな」と大人が食べさせてくれたものだ。一般的に刃物を人に向けるのはタブーではあるが、皿に盛るほどのご馳走ではないし、量も少ないのでくるくるっと剥いてざくっと切って、「お一つどうぞ」の感じで「包丁」に載せて差し出したものだ。とくに梨のように水分の多い果実は、手から手へ渡すよりも、包丁に載せて出したほうがより新鮮で清潔な感じがあったためだと思う。まさに「試食」ならではの光景である。まさかねえ、こういうことが俳句になろうとは露ほども思ったことはなかったけれど。たぶん作者は、包丁に載せて差し出されたのがはじめての体験だったのではなかろうか。だから、ちょっとぎくりとして、作句したのに違いない。「試食」という状況説明をつけたのが、その証拠だ。私たちの世代なら、試食と言われなくてもそう思うのが普通だからである。ま、そんなことはどうでもよろしいが、とにかくとても美味しそうですね。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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