アメリカの掲示板に頻出する"lol"。何だと思ったら"lot of laugh"の略だって。(爆)。




2004ソスN9ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2492004

 天高く事情聴取はつづきをり

                           櫂未知子

ういう想像力は好きですね。そこはかとない可笑しみが漂ってくる。天高しの秋晴れの下、散歩に出かけたりスポーツに興じたりと、そんな戸外の活動をイメージするのは当たり前のこと。当たり前が悪いのではないけれど、しかし、一方では掲句のように天気とは関係のない現実も厳然とあるのである。「事情聴取」とまではいかなくとも、ウィークデーだとむしろ天気の如何に関わらぬ仕事で室内に閉じこもっている人のほうが多いはずだ。私なども、ときたま快晴の窓の外を眺めては、思わずもふうっとため息を漏らしたものだった。会社にいわば拘束されていたわけだが、警察に拘束されていろいろと事情を聞かれるとなると、ため息どころではないだろう。「天高し」どころではない人が圧倒的多数だとは思うけれど、推察すれば、早く拘束をといてほしい気持ちは上天気のほうが強くなりそうだ。取り調べる側だって、早く決着をつけたい気持ちに駆られるだろう。その意味で、まったく無関係だとまでは言い切れまい。しかしなお、掲句では延々と事情聴取はつづいているのであって、せっかく晴れてくれた秋の空が機嫌をそこねかねない案配にまでなってきた。諧謔句と言ってよろしいかと思うが、作者が句の裏側で言っているのは、たぶん季語の常道に拘束されすぎるなということだ。それではどんどん俳句と俳人の世間が狭くなり、多面的多層的な現実を見失うことになりかねないよ。と、一言発言する代わりに、茶目っ気を見せてやんわりとひねってみたのだと思う。『セレクション俳人06・櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)


September 2392004

 をさな子はさびしさ知らね椎拾ふ

                           瀧 春一

語は「椎(の実)」で秋。ドングリの一種と言ってよいと思うけれど、椎は生でも食べられる。でもとにかく色合いが地味なので、それだけに淋しい感じのつきまとう実である。椎の木の生えている場所自体、陰気な感じのするところが多かった。そこらあたりの雰囲気を巧みに捉えたのが、虚子の「膝ついて椎の実拾ふ子守かな」だ。秋も日暮れに近いのだろう。けなげな「子守」の淋しくも哀れな様子が、目に浮かぶようだ。掲句もまた、椎の実にまつわる寂寥感を詠んでいるのだが、しかし虚子のように直球を投げてはいない。かなりの変化球だ。「さびしさ」を知らない「をさな子」が一心に椎の実を拾っている。しかしそれが単純に微笑ましい図かというと、そうではなくて、作者はどこかに淋しさ哀れさを感じてしまうと言うのだ。「知らね」は「知らねども」の略として良いと思うが、純粋無垢の幼児のひたむきな行為を見ていると、身につまされるときがある。かつての自分もこうであったはずだが、やがて物心がつき自我に目覚め、人生の喜怒哀楽を知り始めると、とても純粋ではいられなくなる道程を知っているからだ。無心の幼児。このころが結局いちばん良い時期かもしれないなあと思うと、涙ぐましくなってくる。その感情を、幼児の拾う椎の実の淋しさが増幅するのである。センチメンタリズムを詠ませると、この作者はいつも格別な才気を発揮した。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


September 2292004

 灯火親し英語話せる火星人

                           小川軽舟

語は「灯火親し(む)」で秋。そろそろ、この季語が似合う季節になってきた。本意では本を読むための「灯火」とは限らず、一家団欒などの灯でもよいのだが、読書を詠むときによく使われてきた。掲句も、読書の句だ。いわゆるSFものを読んでいるのだろう。最初は何気なく読み進めていたのだが、そのうちにおやっと気がついた。登場してきた火星人が、当たり前のように「英語」を話しているではないか。ここで読者には作者が英語の小説を読んでいることが知れるが、考えてみれば確かに変である。小説だから仕方が無いと言えばそれまでだけれど、いかに優れた知能の火星人とはいえ、一度も地球上で暮らしたことが無い者に、地球人の言葉が話せるはずは無い。言葉とは、そういうものだ。火星人に地球人と同じような構造の言葉があるわけはないし、仮に話すというコミニュケーション手段があるとしても、地球人同様の環境と生来的に備わった五感とがなければ話は通じないだろう。十数年前にコンピューター雑誌で、宇宙人との交流手段を真剣に研究している人の論文を読んだことがある。彼は、むろん地球人的な意味での言葉の概念を捨てるところから出発していた。当然である。それはともかく掲句の作者は、そうしたことに気づいてにやりとしたのだ。苦笑でもあるが、しかしそこがまた楽しいなという微笑でもある。これからは夜が長くなりますね。ENJOY! 『俳句研究』(2004年10月号)所載。(清水哲男)




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