September 282004
月の雨ふるだけふると降りにけり久保田万太郎今宵は十五夜。仲秋の名月だが、東京あたりの雲行きでは、まず見られそうもない。全国的にも今日は天気が良くなくて、天気図から判断すると、見られるとしても北海道や北陸の一部くらいだろうか。季語は「月の雨(雨月)」。雨降りで、せっかくの名月が見られないことを言う。雨ではなく曇りで見えなければ「無月」となる。しかし雨月にせよ無月にせよ、本義ではそれでも空のどこかが月の光りでほの明るい趣きを指すようだ。これには、楽しみにしていた十五夜が台無しになるのは、いかにも残念という未練心が見え隠れしている。そこへいくと掲句の雨は、もう明るいもヘチマも受け付けないほどのどしゃぶりだ。これほど降ればあきらめもつくし、いっそ気持ちがすっきりするじゃないかと、作者は言うのである。いわゆる江戸っ子の竹を割ったような気性が、そう言わせているのだろう。いつまでぐじぐじしていても、何も始まらねえ。早いとこ、さっさと布団を引っ被って寝ちまおうぜ。とまではさすがに言ってはいないけれど、そこに通じる一種被虐的な快感のような心持ちは感じられる。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男) September 272004 蘭の名はマリリンモンロー唇々々山口青邨季 September 262004 今年藁みどりほのかに新娶り西島麦南季語は「今年藁(新藁)」で秋。新しい藁は、根元のほうにうっすらと「みどり」が残っている。独特な爽やかな香りがあるが、もう何十年も嗅いでいない。懐かしいなあ。稲刈りも脱穀も終わって、秋の農繁期が一段落したころの句だろう。農家での婚礼だ。昔は多く自宅で結婚式や披露宴を行ったので、今年藁が招待客の目に入ってもおかしくない理屈だ。新藁自体に収穫の喜びと安らぎとが感じられ、加えておめでたい婚礼なのだから、この取り合わせは効果的である。しかも「みどりほのかに」のイメージからして、派手な婚礼は想起されず、あくまでもつつましやかな喜びと祝福感が滲み出ている。作者の優しい寿ぎの心が、よく出ていて好もしい。いまどきのようなホテルや会館などでの婚礼には生活感がないけれど、往時のそれはこのように生活と密着していた。どちらが良いと即断はできないけれど、こうした味わいのある婚礼が見られなくなったのは、私にはなんとなく淋しい感じがある。私の親族のなかでは戦後に、農家ではなかったけれど叔父が大阪の自宅で婚礼をあげている。私はその家から東京に越してきたばかりの中学生だったので列席できなかったけれど、式の様子や披露宴の写真を見たときに、将来の自分もこんなふうに畳の上で式をあげるのかなと思ったことだった。が、実際には生活感皆無の場所を選ばざるを得なかった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
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