昨夜の名月。昔に比べるとマスコミも冷たいし社会的な関心事ではなくなったような…。




2004ソスN9ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2992004

 広報の隅まで読んで涼新た

                           伊藤白潮

語は「涼新た(新涼)」で秋。「広報」は区や市など自治体の発行している広報誌のことだが、これを「(隅から)隅まで」読む人はなかなかいないだろう。購読紙に広告といっしょに挟まれて配達される地域が多いので、一瞥もされないままにビラと同じ運命をたどる「広報」も多いはずだ。それを作者は「隅まで」読んだというわけだが、特にその号に注目したというのではなく、おそらくは気まぐれで読みはじめ、ついつい最後までページをたどってしまったということのようだ。読んだのはたまたま手に取ったときの気分が良かったからであり、その気分の良さは猛暑が去った後の「涼」がもたらしたものである。つまり「新涼」の心地よさから読みはじめて、読み終えると、今度は何か普段では経験したことのない達成感が生まれて、そこでまたあらためて快適な「涼新た」の実感がわいてきたということである。「新涼」に誘われて行為した結果、なおのこと「涼新た」の感を深くした。そういう構成だと思う。だからこのときに「涼新た」と「新涼」は厳密には同義ではなく、「涼新た」には作者の読後という時間が投影されている。要するに既成の季語の概念に作者個人のアクションを加え重ねているわけで、なんでもないような句に見えるかもしれないが、作者が素知らぬ顔をして、実は季語と遊んでいるところに掲句の楽しさがあると読んだ。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(清水哲男)


September 2892004

 月の雨ふるだけふると降りにけり

                           久保田万太郎

宵は十五夜。仲秋の名月だが、東京あたりの雲行きでは、まず見られそうもない。全国的にも今日は天気が良くなくて、天気図から判断すると、見られるとしても北海道や北陸の一部くらいだろうか。季語は「月の雨(雨月)」。雨降りで、せっかくの名月が見られないことを言う。雨ではなく曇りで見えなければ「無月」となる。しかし雨月にせよ無月にせよ、本義ではそれでも空のどこかが月の光りでほの明るい趣きを指すようだ。これには、楽しみにしていた十五夜が台無しになるのは、いかにも残念という未練心が見え隠れしている。そこへいくと掲句の雨は、もう明るいもヘチマも受け付けないほどのどしゃぶりだ。これほど降ればあきらめもつくし、いっそ気持ちがすっきりするじゃないかと、作者は言うのである。いわゆる江戸っ子の竹を割ったような気性が、そう言わせているのだろう。いつまでぐじぐじしていても、何も始まらねえ。早いとこ、さっさと布団を引っ被って寝ちまおうぜ。とまではさすがに言ってはいないけれど、そこに通じる一種被虐的な快感のような心持ちは感じられる。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2792004

 蘭の名はマリリンモンロー唇々々

                           山口青邨

モンロー
語は「蘭(らん)」。現代の歳時記では夏に分類しているほうが多いようだが、古くは馬琴の『栞草』のように秋の季語とした。同じく秋に分類している金子兜太編の歳時記によると、秋の七草の一つである「フジバカマ」を昔は「ラン」と言ったからだと書いてある。だから、芭蕉や蕪村の句の蘭はフジバカマのことかもしれないのだが、こればかりはもう確かめようもないだろう。ややこしいけれど、当歳時記では角川版歳時記の分類を基準としているので夏の部に入れておく。掲句は近着の「俳句」(2004年10月号)に載っていた大屋達治「山口青邨論」に引用されていたものだ。作句時の作者は九十歳を越えている。この句を味わうためには、なにはともあれどんな花なのかを知らなければならない。早速ネットで調べてみると、ときどき写真を借用してきた青木繁伸さんのサイトに鮮明なものがあり、縮小して掲載したが、なるほどねえと「納得々々」した次第だ。やはりモンローの顔を簡略化していくと、最後には「唇」が残るということか。アンディ・ウォーホールの版画を思い出したりした。ところで「唇々々」はどう読むのだろう。大屋さんは「くちくちくち」としているが、「しんしんしん」でも面白いかな。いずれにしても、青邨の茶目っ気は終生健在であったということだ。ユーモアも、文芸世界を支える大きな柱である。(清水哲男)




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