October 032004
ぬす人に取りのこされし窓の月
良 寛
良寛といえば、なんといっても歌と詩と書だ。俳句(発句)は入らない。良寛作と伝えられる句はたかだか百句程度だが、そのなかにもオリジナルかどうか疑わしいものがかなりあるという。図書館で見つけた新潟市の考古堂から出ている『良寛の俳句』(写真と文・小林新一)を開いたら、良寛の父親は名の知れた俳人(俳号・以南)であったが、良寛にとって俳句は遊びだったと村山砂田男が書いていた。「芭蕉を俳聖とするならば、一茶は俳人というべきであり、良寛は他の芸術同様、枷(かせ)のない無為の境地において俳句を楽しんだ俳遊である」。さて、その「無為な境地」の人の家に泥棒が入った。前書に「五合庵へ賊の入りたるあとにて」とあるから、入られたのは良寛が五十代を過ごした草庵だ。昨年の初夏に八木忠栄の案内で大正初期に再建された五合庵を見に行ったけれど、そのたたずまいからして、またそのロケーションからして、およそプロの泥棒がねらうような庵ではない。落語なら「へえ、泥棒に入られたのか。で、何か置いていったか」てな住居なのだ。村山さんは蒲団を持っていかれたと書いているが、何か根拠があるのだろうか。が、何にせよ奪われた側の良寛は、さすがの泥棒も「窓の月」だけは盗みそこねたなと、呑気というのか闊達というのか、とにかく恬淡としている。ここらへんが、良寛と我ら凡俗の徒の絶対の差であろう。句の味としては一茶に似ている感じがするが、一茶と良寛とは全くの同時代人だった。それにしても、泥棒に入られて即一句詠むなんぞは、やはり「俳遊」と呼ぶしかなさそうである。(清水哲男)
May 232007
雨のふる日はあはれなり良寛坊
良 寛
無季。良寛が住んだ越後は雨の多い土地である。梅雨時か秋の長雨か、季節はいずれであるにせよ、三日以上も雨がつづくことは珍しくない。托鉢に歩き、その途次に子どもたちと手毬をついたり、かくれんぼをしたりしてよく遊んだと伝えられる良寛にとって、雨の日はつらい。里におりて子どもたちと「ひふみよいむな 汝(な)がつけば 吾(あ)は歌ひ あがつけば汝は歌ひ つきて歌ひて・・・・」と手毬に興じた良寛にとって、恨みの雨であるかもしれない。しかし、良寛に恨みの心は皆無である。それどころか、自らを「良寛坊」などと自嘲的に対象化し、「あはれ」とも客観視して見せている。良寛持ち前のおおらかさや屈託のなさは感じられても、「哀れ」や「せつなさ」が耗も感じられないところは、さすがである。いささかも哀切ではなく、湿ってもいない。雨の日は庵にいて歌を詠み、のんびり書を読み、筆をとって楽しむことが多かった。訪れる人もなく、好きな酒を独りチビチビやっていたかもしれない。「良寛坊」を、読者が自分(あるいは誰か)と入れ替えて読むのも一興。良寛の漢詩、和歌、長歌などはよく知られているが、俳句は「焚くほどは風が持てくる落葉かな」が知られているくらいで、いわゆる名句はあまりないと言っていい。父以南は俳人だった。良寛の句は手もとにある全集に八十五句収められ、編者・大島花束は「抒情詩人としての彼の性格は、俳句の方ではその長足を伸ばすことが出来なかったらしい」と記している。『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)
July 302008
酔ひふしのところはここか蓮の花
良 寛
蓮の花で夏。「ところ」を「宿(やどり)」とする記録もある。良寛は酒が大好きだったから、酒を詠んだ歌が多い。俳句にも「ほろ酔の足もと軽し春の風」「山は花酒や酒やの杉はやし」などと詠んだ。酒に酔って寝てしまった場所というのは、ここだったか・・・・。傍らには蓮の花がみごとに咲き香っている。まるで浄土にいるような心地。「蓮の花」によって、この場合の「酔ひふし」がどこかしら救われて、心地良いものになっている。良寛は庵に親しい人を招いては酒を酌み、知人宅へ出かけては酒をよばれて、遠慮なくご機嫌になった。そんなときぶしつけによく揮毫を所望されて困惑した。断固断わったこともたびたびあったという。子どもにせがまれると快く応じたという。基本的に相手が誰であっても、酒はワリカンで飲むのを好んだ、というエピソードが伝えられている。良寛の父・以南は俳人だったが、その句に「酔臥(よひふし)の宿(やどり)はここぞ水芙蓉」があり、掲出句はどうやら父の句を踏まえていたように思われる。蓮の花の色あいの美しさ清々しさには格別な気品があり、まさに極楽浄土の象徴であると言ってもいい。上野不忍池に咲く蓮は葉も花もじつに大きくて、人の足を止めずにはおかない。きれいな月が出ていれば、用事を忘れてしゃがんでいつまでも見あげていることのあった良寛、「ここ」なる蓮の花に思わず足を止めて見入っていたのではあるまいか。今年は良寛生誕250年。『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)
October 142009
焚くほどは風がもてくる落葉かな
良 寛
季語として「落葉」は冬だけれど、良寛の句としてよく知られた代表句の一つである。越後の国上山(くがみやま)にある古刹・国上寺(こくじょうじ)に付属する小さな五合庵の庭に、この句碑はのっそり建っている。もともと同寺が客僧を住まわせ、日に五合の米を給したところから名前がついた。良寛はここに四十歳から約二十年近く住んだ。同庵をうたった詩のなかに「索々たる五合庵/室は懸磬(けんけい)のごとく然り/戸外に杉千株」「釜中時に塵あり/甑裡(そうり)さらに烟なし」などとある。煮焚きをするのに余分なものはいらない。あくせくせず、ときに風が運んできてくれる落葉で事足りるというわけである。落葉一枚さえ余分にいらないという、無一物に徹した精神であり、そうした精神を深化させる住庵の日々であったと言える。「わが庵を訪ねて来ませあしびきの山のもみぢを手折りがてらに」「国上山杉の下道ふみわけて我がすむ庵にいざかへりてん」など、草庵での日々を詠んだ歌がたくさん残されている。山の斜面にひっそりと建つ五合庵から托鉢に出かけるには、夏場はともかく、雪に閉じ込められる冬場は、難渋を強いられたであろうことが容易に推察される。大島花束編『良寛全集』には「たくだけは風がもて来る落葉かな」とあり、一茶の日記には「焚くほどは風がくれたる……」というふうに、異稿も残されている。『良寛こころのうた』(2009)所収。(八木忠栄)
April 292015
子らや子ら子等が手をとる躑躅かな
良 寛
子どもたちが群れて遊んでいるのだろう。「子らや子ら子等……」という呼びかけに、子どもが好きだった良寛の素直な心が感じられる。春の一日、おそらく一緒になって遊んでいるのだろう。子らと手をとりあって遊んでいるのだ。この「手」は子どもたちの手であり、良寛の「手」でもあるだろう。あたりには躑躅の赤い花が咲いている。子どもたちと躑躅と良寛とーー三者の取り合わせが微笑ましい春の日の情景をつくりだしている。子ども同士が手をとりあっているだけではなく、そこに良寛も加わっているのだ。良寛の父・以南は俳人だったが、その句に「いざや子等こらの手をとるつばなとる」がある。この句が良寛の頭のどこかにあったのかもしれない。子どもらとよく毬をついて遊んだ良寛には、「かすみ立つ長き春日を子どもらと手毬つきつつこの日くらしつ」など、子どもをうたった歌はいくつもあるけれど、おもしろいことに『良寛全集』に収められた俳句85句のなかで、子どもを詠んだ句は掲出した一句のみである。他の春の句に「春雨や静かになでる破(や)れふくべ」がある。大島花束編著『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)
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