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October 09102004

 居ながらに骨は減りつつ新牛蒡

                           柿本多映

夏に収穫する牛蒡(ごぼう)もあるが、普通は春蒔きで秋に収穫する。秋の季語として「牛蒡引く」があるので、「新牛蒡」はこの項目に入れておく。中年くらいから年齢を重ねるにつれて、その化学的な成分は変化しないが、「骨(量)」は徐々に減ってゆく。とくに女性は閉経後に急に減少するので、骨粗鬆(こつ・そしょう)症になりやすい。まさにただ生きているだけ、それだけで「居ながらに」して減ってゆくわけだ。作者はそのことを、ふと意識の上にのぼせたのだろう。だが、なにしろ減少過程それ自体は自覚されないのだから、恐いと言えば恐いし、哀れと言えば哀れでもある。他方「新牛蒡」は成長途上で生命を絶たれた生物であり、むろん骨は無いけれど、その姿は減少した骨にも似て細く筋張っており、いまの作者の意識からすると哀れな感じを受けるのだ。生命あるものと、それを絶たれたものとが相似ていることの哀れである。もっともこういう句は、このような「何が何してナントやら」的な理屈で解釈しても面白みに欠けてしまう。パッと読んで、パッと閃くイメージや感覚のなかで観賞するのが本来だと思う。余談、一つ。三鷹の明星学園で教えていたころの無着成恭が、テレビで話していた。「いまの子は、実物のゴボウを見せても何なのかわからない。キンピラゴボウなら、みんな知ってるのに」。辞書や歳時記にも、そろそろゴボウの写真が必要だ。『粛祭』(2004)所収。(清水哲男)




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