携帯型睡眠計が開発された。腕時計のようにして寝るのだが、気になって眠れない人も。




2004ソスN10ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 11102004

 夜長ふと見出しものに「肥後守」

                           中村草田男

語は「夜長」で秋。草田男にしては、大人しい句だ。署名がなければ、誰も草田男句だとは読めまい(思い出しますね、「第二芸術論」)。秋の夜長のつれづれに、引き出しの整理でもしていたのだろう。その昔、子供の頃に使った「肥後守(ひごのかみ)」が出てきた。何故こんなところに、こんなものが……。訝しく思いつつも、一挙に懐かしさに襲われて、刃を開いたり閉じたりしてみている。何か削るものはないかと、周辺を見回している作者の姿が想像されて、微笑ましい。「肥後守」は、明治期から昭和三十年代くらいまでにかけて使用された学童用の安価な和式ナイフである。といっても、ちゃんと刃文の出る本格的な刃物で、きちんと研いでやると相当によく切れた。ということは、錵もあったのだろう。主として鉛筆削りに使われたが、そこは子供のこと。それだけの用途ではすまされず、木や竹を削ったり果物を剥いたりと、いまで言うアウトドアでも大いに活躍した。だが、喧嘩に使われることはめったになかったと思う。そのあたりは刃物の何たるかを、肥後守を通じて知らず知らずのうちにわきまえていたのだ。危ないという理由からと、便利な鉛筆削り機が登場したことにより、学校から追放されてしまったけれど、それで良かったとは必ずしも言いがたい。刃物を持ったことがない者には、刃物の恐さがわからないからだ。ちなみに今回初めて知ったことだが、「肥後守」は「味の素」などと同様に普通名詞ではなく、れっきとした登録商標なんだそうである。『大虚鳥』(2003)所収。(清水哲男)


October 10102004

 錵のごとくに秋雷の遠きまま

                           友岡子郷

て「錵(にえ)」とは何だろうか。「沸」とも表記する。句の成否は「錵のごとくに」の比喩にかかっているのだから、知らないと観賞できない。手元の辞書には「焼きによって日本刀の刃と地膚との境目に現れる、雲や粟(あわ)粒のような模様」と出ている。刀身を光にかざして見ると、細かいキラキラする粒が認められる。それが「錵」だ。学生時代に後輩の家に遊びにゆき、はじめて抜身の日本刀を間近に見せてもらった。父親の美術コレクションだったようだが、持ってみて、まずはその重さに驚いた。とても振り回したりはできないと思った。そして、なによりも刀身の美しさ……。息をのむようなという形容が陳腐なら、思わず居住まいをただされるとでも言うべきか。それまで胡座をかいていたのが、すうっと自然に正座してしまうほどだった。「(曇るので)息をかけないように」と言われたのにはまいったけれど、何の感想も漏らせないままに、ただただ見入ってしまったことを覚えている。掲句はそのときのことを思い出させてくれ、私にとっては遠い「秋雷」さながらに、しばし郷愁に誘われる時間を得た。自注によれば、作者は小学生のときに備前長船を叔父に見せてもらったそうで、この「遠きまま」には、距離の遠さと時間の遠さとが同時に表現されているわけだ。しかし、そうした作句事情は知らなくても、日本刀を手に取ったことがある人には、一読同感できる佳句として響いてくるだろう。『未草』(1983)所収。(清水哲男)


October 09102004

 居ながらに骨は減りつつ新牛蒡

                           柿本多映

夏に収穫する牛蒡(ごぼう)もあるが、普通は春蒔きで秋に収穫する。秋の季語として「牛蒡引く」があるので、「新牛蒡」はこの項目に入れておく。中年くらいから年齢を重ねるにつれて、その化学的な成分は変化しないが、「骨(量)」は徐々に減ってゆく。とくに女性は閉経後に急に減少するので、骨粗鬆(こつ・そしょう)症になりやすい。まさにただ生きているだけ、それだけで「居ながらに」して減ってゆくわけだ。作者はそのことを、ふと意識の上にのぼせたのだろう。だが、なにしろ減少過程それ自体は自覚されないのだから、恐いと言えば恐いし、哀れと言えば哀れでもある。他方「新牛蒡」は成長途上で生命を絶たれた生物であり、むろん骨は無いけれど、その姿は減少した骨にも似て細く筋張っており、いまの作者の意識からすると哀れな感じを受けるのだ。生命あるものと、それを絶たれたものとが相似ていることの哀れである。もっともこういう句は、このような「何が何してナントやら」的な理屈で解釈しても面白みに欠けてしまう。パッと読んで、パッと閃くイメージや感覚のなかで観賞するのが本来だと思う。余談、一つ。三鷹の明星学園で教えていたころの無着成恭が、テレビで話していた。「いまの子は、実物のゴボウを見せても何なのかわからない。キンピラゴボウなら、みんな知ってるのに」。辞書や歳時記にも、そろそろゴボウの写真が必要だ。『粛祭』(2004)所収。(清水哲男)




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