いまやあからさまに企業が国を動かす時代になった。ダイエー問題は国策的課題なのだ。




2004ソスN10ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 15102004

 唐辛子乾き一村軽くなる

                           塩路隆子

語は「唐辛子」で秋。「唐」とつくが、日本には南方からポルトガルの宣教師が持ってきたとされる。「唐」という言葉は中国とは無関係に、外来の意でも用いられた。句は、晴天好日の村の様子を詠んでいる。それぞれの家の軒先などに吊るされた唐辛子が、良い天気に乾いてゆく。その唐辛子のいかにも軽くなった感じから、村全体「一村」が「軽くなり」と大きく言い放ったところが面白い。あくまでも天は高く、あくまでも静かな村の真昼の雰囲気が、よく伝わってくる。私が子供だったころの田舎でも、あちこちに干してあったものだが、あれはいったい何のためだったのだろうか。最近になって、ふっと疑問に思った。家庭で香辛料にするのなら、あんなに大量に必要はないだろうし、薬用に使うという話も聞いたことがない。といって商売にしていたとも思えないから、謎である。他ならぬ我が家の場合にも、主として何に使用していたのかは記憶にない。大根などの煮物に入ってはいたけれど、あんなには必要なかったはずだ。冬の日、この干した唐辛子を悪戯で、教室の暖房用の大きな火鉢に放り込んだヤツがいて、ものすごい刺激臭を含んだ煙がたちこめ騒然となった。とても目が開けていられず、みんなで表に飛び出した。以来、悪ガキたちは妙に唐辛子に親近感を覚えたものだが、これは割に真っ当な(?)使い方だったようだ。というのも、日本では最初食用には使われず、朝鮮出兵の折りには毒薬(目つぶし用)として用いられたそうだからである。『美しき黴』(2004)所載。(清水哲男)


October 14102004

 秋の山遠祖ほどの星の数

                           野沢節子

語は「秋の山」。星が見えているのだから、夕暮れ時だろう。そろそろ山を下りようかというときに、澄んだ空を仰ぐと星が瞬きはじめていた。はじめのうちはぽつりぽつりと光っていたのが、時間が経つに連れてだんだんに数を増してくる。それらの星を「遠祖(とおおや)」、すなわち祖先のようだととらえた感受性を私は好きだ。そこらあたりは人それぞれで、なかには「金平糖」みたいだと感じたり「金貨」みたいだと思ったりとさまざまだし、さまざまで良いのである。が、黄昏時から徐々に数を増やしてゆく星たちの動的なありようは、私たちが祖先を思うというときに、まず両親の二人からだんだんに遡ってゆく過程に似ていて、句想の動きは的確だ。そして、遠祖の存在は確かに宇宙の星のように時間的空間的に遠いのである。いったい、私の祖先の数はどれくらいなのだろうか。この句を読んだ誰しもが、立ち止まって考えたくなるだろう。私たちはみな、太古の祖先から生き代わり死に代わりして、しかし脈々と血はつながって、いま、ここ現代の時空間に立っている。それは偶然の存在だし、また必然の存在でもある。澄んだ「秋の山」の大気のなかで、作者は遠い祖先の「数」に想いを馳せながら、粛然たる気分を得たにちがいない。『花季』(1966)所収。(清水哲男)


October 13102004

 赤い羽根つけてどこへも行かぬ母

                           加倉井秋を

語は「赤い羽根」で秋。厳密に言うと、募金期間は大晦日までなので冬の季語として使ってもよいわけだが、普通は賑々しい街頭募金の行われる秋に限定して使っている。句の「母」は明治生まれ。いわゆる職業婦人は別として、昔の専業主婦はめったに外出はしなかった。いや、できなかったと言うべきか。大正初期生まれの私の母も、よほどのことがない限り、いつも家にいた。そんな母が、赤い羽根をつけている。羽根は募金をした印なのだから、外出しなければ必要がない。意味がない。でも彼女は、「どこへも行かぬ」のに律儀に胸につけて家の中で立ち働いているのだ。愚直なほどに古風な女性像が浮かび上がってくる。たまにはお母さんも、家のことなど放っておいて外出すればいいのにと、優しく母を思いやる気持ちの滲んだ句だ。ここで理屈っぽい人なら、何故どこへも外出しない人が赤い羽根を所持しているのかと訝るかもしれない。回答は簡単で、彼女は各家庭をまわってくる募金ボランティアに応じただけの話である。派手な駅頭などでの募金は募金額の総体に比べればわずかなもので、主たる収入源は家庭や企業に訪問しての寄付募金だと関係者に聞いたことがある。単純に考えても、駅頭での募金額と玄関先でのそれとでは一桁は違ってきそうだ。ましてや相手が企業ともなれば、数桁の差は見込めるだろう。脱線しそうになってきたのでこのあたりで止めておくが、それにしても赤い羽根をつけて歩いている人をあまり見かけなくなってきた。今日もつけているのは、一部の国会議員くらいなものではなかろうか。『炎還・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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