ここに来てやたら忙しくなってきた。再来週の富山行きまではびっしりのスケジュール。




2004ソスN10ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 23102004

 思ひ出してはあそぶポケットの団栗と

                           加藤楸邨

語は「団栗(どんぐり)」で秋。本来はクヌギの実のことを言ったようだが、一般的には似たような木の実の総称になっている。どこかに出かける途中で、気まぐれにいくつか団栗を拾ってポケットに入れた。出先でときどき「思ひ出しては」、ポケットに手を入れてまさぐりながら楽しんでいる。「あそぶ」とあるけれど、取り出して遊んだのではないだろう。たとえば会議中などに、大の男が素知らぬ顔で上着のポケットに手を入れ、懐かしい感触を楽しんでいる様子が想像されて微笑ましい。茶目っ気よりも、なんだかしいんとした情感を感じさせる句だ。「ポケットの団栗と」の「と」が、そう感じさせるのだ。ところで、ドングリは食べられる。縄文人の主食だったという説もあるくらいで、敗戦後の食糧難の時代には婦人雑誌などが盛んに奨励していたようだ。私も当時団子にした物を食べたことはあるが、飢えていたにもかかわらず、そんなに美味いものではなかったような気がする。いまでもたまに見かけるドングリのクッキーなどは、小麦粉の割合が格段に多いのだろう。ドングリの風味だけを味わうのならそうすべきで、100パーセントドングリ粉だけでは第一パサパサしてしまうし、とても風味だの風流だのとは言っていられないはずである。『加藤楸邨句集』(2004・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


October 22102004

 にわとりも昼の真下で紅葉す

                           あざ蓉子

て、「にわとり」は「紅葉」しない。「昼間」には「真下」も真上もない。それを承知で、作者は詠んでいる。あえて言うのだが、こうした句を受け入れるかどうかは、読者の「好み」によるだろう。わからないからといって悲観することはないし、わかったからといって格別に句を読む才に長けているわけでもあるまい。何度も書いてきたように、俳句は説得しない文芸だ。だから、読みの半分くらいは読者にゆだねられている。そこがまた俳句の面白いところであり、どのような俳人もそれを免れることはできない。従って、掲句が読者に門前払いされても、致し方はないのである。でも、私はこの句が好きだし、理由はこうだ。まず浮かんでくるのは、しんとした田舎の昼の情景である。すなわち「昼の真下」とは、天高くして晴朗の気がみなぎる地上(空の「下」)の光景だろう。そこに一羽の老いた「にわとり」がいる。このときにこの鶏は、間もなく死に行く運命にあるのだが、その前に消えてゆく蝋燭の火が一瞬鮮やかな光芒を放つように、生き生きと生命の炎を燃やしているように見えた。その様子を周囲の鮮やかにしてやがて散り行く「紅葉」になぞらえたところが、私には作者の手柄だと写る。くどいようだが、この読みも当然私の好みのなかでの話であり、作者の作句意図がどうであれ、このように私は受け取ったまでで、俳句の読みはそれでよいのだと思う。俳誌「花組」(第24号・2004年10月刊)所載。(清水哲男)


October 21102004

 食べるでも飾るでもなく通草の実

                           岩淵喜代子

語は「通草(あけび)」で秋。いただき物だろう。むろん食べて食べられないことはないのだけれど、積極的に食べたいとも思わない。かといって飾っておくには色合いもくすんでいて地味だし、たとえばレモンのようにテープルを明るくしてくれるわけでもないので、困ってしまった。でも、せっかくいただいたものでもあり、先方の好意を無にするようなことはできない。さて、どうしたものか……。作者はさっきから、じいっと通草をにらんでいるのである。ふふっと思わず笑ってしまったが、こういうことは誰にでも経験があるだろう。昔の話になるが、小学生が修学旅行の土産に小さな筆立てをくれたことがある。私には小さすぎて使い物にならなかったのは仕方がないとして、筆立てに大書されていた言葉がいけない。「根性」だったか「努力」だったか。とにかくそんな文字がくっきりと焼き付けられていて、しばし机上に飾るというのもはばかられた。どうしようかと私もしばらくにらんでから、やむを得ず戸棚に保管することにしたのだった。が、句の通草の場合は、まさか戸棚にはしまえない。いったい作者はどうしたのだろうか。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)




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