ライフラインの復旧が遅れている。こういうときにこそ政府は人と金をつぎ込むべきだ。




2004ソスN10ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 27102004

 柿もぐや殊にもろ手の山落暉

                           芝不器男

語は「柿」で秋。「もろ手(双手)」で柿を取っている。つまり、片方の手で柿の木の枝を押さえ、もう一方で「もいで」いる図である。そうすると自然に双手は輪の形になり、双手の輪の中には遠くの山が囲まれて見えるわけだ。その山にはいましも秋の日が落ちていく(落暉)ところで、「殊(こと)」に鮮やかで美しい感じを覚えたというのである。間近な柿と遠くの夕陽との取り合わせ。色彩はほぼ同系統なので、お互いがお互いに溶け込むような印象も受ける。そして作者は、ひんやりとした秋の大気のなかにいる。が、もぐために上げた両手が耳のあたりに触れているために、頬のあたりだけがかすかに暖かい。そのかすかな暖かさが、束の間とはいえ、落暉の輝きをより鮮明にしていると言ってもよいだろう。不器男の生まれ育った土地は、四国は四万十川上流の広見川のつくる狭い流域の村落であった。そこで彼は、二十八年という短い生涯の大半を過ごしている。いわば峡谷の子だった。そのことを意識して不器男句を読んでみると、天と地、高所と低所の事象や事物の取り合わせがかなり多いことが知れる。「山のあなたの空とおく……」。峡谷に暮らす人たちの、ごく自然な意識の持ちようだと思う。『芝不器男句集』(1992・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


October 26102004

 胸さびしゆゑにあかるき十三夜

                           石原八束

語は「十三夜」で秋。陰暦九月十三日(すなわち本日)の夜の月のこと。仲秋の名月(十五夜)に対して「後(のち)の月、後の名月」などとも言う。十五夜の満月が陽性なのに比べて、どちらかと言えば今宵の月は陰性だ。四囲は枯れはじめ、虫の音も途絶えがちになる。しかも大気は澄んでくるから、ひとり月光のみが鮮やかで、句のように寂寥感を増幅する。掲句を見つけて樋口一葉に短編「十三夜」があったことを思い出し、読み返してみた。身分違いの家に懇望されて嫁いだものの、最近では旦那に冷たくされ罵倒され、ついに我慢しきれずに離婚を決意し、子供を置いて実家に戻ってくる女性の話だ。そうとは知らぬ両親は上機嫌で出迎えてくれる。「今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたけれど、亥之助も何か極りを惡がつて其樣な物はお止なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、……」。「舊弊なれど」とあるから、明治期の東京あたりでは、十三夜の月見の風習は廃れつつあったことがわかる。意を決して離婚の意思を両親に打ち明けた彼女は、しかし子供のために実家に戻るよう父親に説得され、涙顔を袖で隠して人力車に乗った。「さやけき月に風のおと添ひて、虫の音たえだえに物がなしき上野へ入りてよりまだ一町もやうやうと思ふに、……」。ここから劇的なシーンになるのだが、関心のある方は原作でどうぞ。ともかく十三夜は、この句もそうであるように、こうした古風な情緒によく似合う月である。今宵晴れるか。『新俳句歳時記』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 25102004

 廃校の下駄箱ばけつ秋桜

                           辻貨物船

語は「秋桜」。コスモスのこと。私は秋桜という命名を、イメージ的に違和感があるので好まないが、ま、いいでしょう。先日、福井県大野市の小学校で子供たちとの詩の集いがあり、出かけてきた。新しく建て直したと思われる校舎は立派だったが、比べて児童の少なさには驚いた。入り口の「下駄箱」を見たら、ぱらぱらっとしか靴が入っていない。広い運動場では体育の授業中だったけれど、そこもぱらぱらっなのである。集いには市内五つの学校の6年生(一部5年生を含む)全員が集まり、それでも80人ほどなのだから過疎化は確実に進行していると思われた。昨年のちょうどいまごろ、郷里の山口県の村を訪れたところ、我が母校は過疎の波に抗しきれずに「廃校」になっていたのを思い出し、その過程では大野の学校のような時期もあったろうと、気持ちが沈み込んだことである。掲句は決して上手とは言えないが、詩人・辻征夫(「貨物船」は俳号)が学校を想うというときに、何をもって郷愁の手がかりにしていたかがわかって興味深い。「下駄箱」は子供らのにぎやかさの象徴であり、「ばけつ」は義務づけられた作業のそれであり、そして「秋桜」はみんなを取り巻いていた環境のそれだろう。廃校となってしまった学校の跡には、いまはただコスモスが生えるに任せて雑草のように繁っていて、秋風に揺れているばかりなのだ。このときの詩人には、もはや幻となった下駄箱やばけつが淋しく見えていたに違いない。『貨物船句集』(2001)所収。(清水哲男)




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