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2004ソスN10ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 29102004

 萱負うて束ね髪濃き山処女

                           星野麥丘人

語は「萱(かや)」で秋。ただし、萱という植物名はない。ススキやチガヤなどの総称で、ススキを指す場合がほとんどである。昔は茅葺きの屋根に使われたものだけれど、今ではさしたる実用性はなさそうだ。作者は田舎道で、背負子に萱の束を背負った土地の若い女性とすれちがった。「処女」は「おとめ」と読む。ずいぶんと重そうではあるが、しっかりとした足取りだ。少し前屈みになった女性の「束ね髪」は黒々として艶があり、「若さだなア」と作者は素直に感嘆している。と同時に、彼の胸にはふっとよぎるものもあったと思う。この地で生まれ育ち、生涯をこの地でつつましく生きていくであろう女性の宿命のようなものである。萱には、どこかそうした淋しさを想起させるところがある。萱それ自体というよりも、ものみな枯れてゆく山国の光景が、そうさせるからだろう。古歌に曰く。「七日刈る萱は我が身の上なれや人に思ひを告げでやみぬる」(『古今六帖』)。私の子供の頃にも、よく萱を刈った。学校に持っていくとナニガシかになった記憶があるが、あれはいったい何の役に立っていたのだろうか。萱の葉では、とにかくよく指を切ったっけ。痛いのなんのって……。そんな思い出と、あとは束ねた萱の良い匂いくらいしか覚えていない。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


October 28102004

 毒茸月薄目して見てゐたり

                           飯田龍太

語は「(毒)茸」で秋。「薄目して」見ているのは、毒茸なのか月なのか。ちょっと迷った。どちらともとれるけれど、毒茸が見ているほうが面白いので、主語は毒茸として読むことにした。月夜の毒茸といえば、ツキヨダケだろう。残念ながら見たことはないのだが、夜間に白く発光するのだそうである。それだけでも不気味なのに、月など無視しているような顔をして、実は薄目を開けてじいっと様子を窺っているときては、ますます不気味さを増してくる。それも一つの毒茸だけではなくて、あちらでもこちらでも多くの薄目が鈍く光っているのだ。山の人・龍太の、いわば実感句と言ったところか。発光しているところを見たことがある人ならば、私の何倍もぞくりとするに違いない。日本人の茸中毒の大半はこのツキヨダケによると言われており、年間平均の重い中毒者は200人程度、この数字は明治以降ほとんど変わらないのだという。それほど、食べられるものとの見分けがつかないわけだ。山の子だった私たちは、いくつかの見分け方を言い伝えで知っていた。代表的なのは、茎が縦に裂けないものは食べられないということや、色が毒々しいものも駄目などであった。ところがこれはとんだ迷信で、そんな見分け方では役に立たない事例はいくつもあることを後年知って愕然としたことがある。なかには酒といっしよに食べるときだけ中毒する茸もあるそうで、要するに素人判断は止めておくに限るということでしょう。山本健吉『俳句鑑賞歳時記』(2000・角川文庫)所載。(清水哲男)


October 27102004

 柿もぐや殊にもろ手の山落暉

                           芝不器男

語は「柿」で秋。「もろ手(双手)」で柿を取っている。つまり、片方の手で柿の木の枝を押さえ、もう一方で「もいで」いる図である。そうすると自然に双手は輪の形になり、双手の輪の中には遠くの山が囲まれて見えるわけだ。その山にはいましも秋の日が落ちていく(落暉)ところで、「殊(こと)」に鮮やかで美しい感じを覚えたというのである。間近な柿と遠くの夕陽との取り合わせ。色彩はほぼ同系統なので、お互いがお互いに溶け込むような印象も受ける。そして作者は、ひんやりとした秋の大気のなかにいる。が、もぐために上げた両手が耳のあたりに触れているために、頬のあたりだけがかすかに暖かい。そのかすかな暖かさが、束の間とはいえ、落暉の輝きをより鮮明にしていると言ってもよいだろう。不器男の生まれ育った土地は、四国は四万十川上流の広見川のつくる狭い流域の村落であった。そこで彼は、二十八年という短い生涯の大半を過ごしている。いわば峡谷の子だった。そのことを意識して不器男句を読んでみると、天と地、高所と低所の事象や事物の取り合わせがかなり多いことが知れる。「山のあなたの空とおく……」。峡谷に暮らす人たちの、ごく自然な意識の持ちようだと思う。『芝不器男句集』(1992・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)




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