November 102004
花嫁の菓子の紅白露の世に
吉田汀史
季語は「露の世」で秋。「露」に分類。この場合の「露」は物理的なそれではなく、一般的にははかなさの比喩として使われる。むなしい世。「花嫁の菓子の紅白」は、結婚式の引き出物のそれだろう。いかにもおめでたく、寿ぎの気持ちの籠った配色だ。それだけに、作者はかえって哀しみを感じている。結婚が、とどのつまりは人生ひとときの華やぎにしか過ぎないことを、体験的にも見聞的にも熟知しているからだ。といって、むろん花嫁をおとしめているのではない。心から祝いたい気持ちのなかに、どうしても自然に湧いてきてしまう哀しみをとどめがたいのである。たとえば萩原朔太郎のように、少年期からこうした感受性を持つ人もいるけれど、多くは年輪を重ねるにつれて、「露の世」の「露」が比喩を越えた実際のようにすら思われてくる。かく言う私にも、そんなところが出てきた。考えるに、だからこの句は、菓子の紅白をきっかけとして、思わずもみずからの来し方を茫々と振り返っていると読むべきだろう。同じ作者に「烏瓜提げ無造作の似合ふ人」がある。その人のおおらかな「無造作」ぶりを羨みながら、いつしか何事につけ無造作な気分ではいられなくなっている自分を見出して、哀しんでいるのだ。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)
August 252005
汝が好きな葛の嵐となりにけり
大木あまり
季語は「葛(くず)」で秋。「葛の花」は秋の七草の一つだが、掲句は花を指してはいない。子供の頃の山中の通学路の真ん中あたりに、急に眺望の開ける場所があった。片側は断崖状になっており、反対側の山の斜面には真葛原とまではいかないが、一面に葛が群生していた。そこに谷底から強い風が吹き上がってくると,葛の葉がいっせいに裏返ってあたりが真っ白になるのだ。葛の葉の裏には,白褐色の毛が生えているからである。大人たちはこの現象を「ウラジロ」と言っていて、当時の私には意味がわからなかったけれど、後に「裏白」であると知った。壮観だった。古人はこれを「裏見」と称し「恨み」にかけていたようだが、確かにあれは蒼白の寂寥感とでも言うべき総毛立つような心持ちに、人を落し込む。子供の私にも,そのように感じられたが、嫌いではなかった。「全山裏白」と,詩に書きつけたこともある。ところで、掲句の「葛の嵐」が好きな「汝」とはどんな人なのだろう。この句の前には、「身に入むと言ひしが最後北枕」、「恋死の墓に供へて烏瓜」の追悼句が置かれている。となると、「汝」はこの墓に入っている人のことだろうか。だとすれば、墓は葛の原が見渡せる場所にあるというわけだ。無人の原で嵐にあおられる裏白の葛の葉の様子には、想像するだに壮絶な寂しさがある。それはまた、作者の「汝」に対する心持ちでもあるだろう。「俳句」(2005年9月号)所載。(清水哲男)
October 232008
省略がきいて明るい烏瓜
薮ノ内君代
まことに省略のきいたものは明るい輝きを持っている。俳句もしかり、さっぱりと片付けた座敷も。ところで秋になると見かける烏瓜だけど、あれはいったいどんな植物のなれの果てなのだろう。気になって調べてみると実とは似ても似つかない花の写真が出てきた。白い花弁の周りにふわふわのレースのような網がかかった美しい花。夏の薄暮に咲いて昼には散ってしまうという。「烏瓜の花は“花の骸骨”とでも云った感じのするものである。遠くから見る吉野紙のようでもありまた一抹の煙のようでもある。」と寺田寅彦が『烏瓜の花と蛾』で書いている。烏瓜というと、秋になって細い蔓のあちらこちらに明るい橙色を灯しているちょうちん型の実しかしらなかったので、そんな美しい経歴があろうとは思いもよらなかった。実があるということはそこの場所に花も咲いていたろうに、語らず、誇らず枯れ色の景色の中につるんと明るい実になってぶら下がっている。省略がきいているのはその形だけではなかったのね。と烏瓜に話しかけたい気分になった。『風のなぎさ』(2007)所収。(三宅やよい)
May 292015
青鷺の常にまとへる暮色かな
飛高隆夫
青鷺は渡りをしない留鳥なので何時でも目にする鳥である。東京上野の不忍池で観察した時は小さな堰に陣取り器用に口細(小魚)を抓んでいた。全長93センチにもなる日本で最も大きな鷺であり、餌の魚を求めてこうした湖沼や川の浅瀬を彷徨いじっと立ち尽くす。その姿には涼しさも感じるが、むしろ孤独な淋しさや暮色を滲ませているように感じられるのである。他にも<藤垂れて朝より眠き男かな><耳うときわれに妻告ぐ小鳥来と><よき日和烏瓜見に犬連れて>などが心に残った。「暮色」(2014)所収。(藤嶋 務)
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