ドアを蹴破って民家を捜索する米兵。このTV映像はヤラセだな。戦争報道の基本だけど。




2004ソスN11ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 10112004

 花嫁の菓子の紅白露の世に

                           吉田汀史

語は「露の世」で秋。「露」に分類。この場合の「露」は物理的なそれではなく、一般的にははかなさの比喩として使われる。むなしい世。「花嫁の菓子の紅白」は、結婚式の引き出物のそれだろう。いかにもおめでたく、寿ぎの気持ちの籠った配色だ。それだけに、作者はかえって哀しみを感じている。結婚が、とどのつまりは人生ひとときの華やぎにしか過ぎないことを、体験的にも見聞的にも熟知しているからだ。といって、むろん花嫁をおとしめているのではない。心から祝いたい気持ちのなかに、どうしても自然に湧いてきてしまう哀しみをとどめがたいのである。たとえば萩原朔太郎のように、少年期からこうした感受性を持つ人もいるけれど、多くは年輪を重ねるにつれて、「露の世」の「露」が比喩を越えた実際のようにすら思われてくる。かく言う私にも、そんなところが出てきた。考えるに、だからこの句は、菓子の紅白をきっかけとして、思わずもみずからの来し方を茫々と振り返っていると読むべきだろう。同じ作者に「烏瓜提げ無造作の似合ふ人」がある。その人のおおらかな「無造作」ぶりを羨みながら、いつしか何事につけ無造作な気分ではいられなくなっている自分を見出して、哀しんでいるのだ。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)


November 09112004

 かく隙ける隙間風とはわらふべし

                           皆吉爽雨

語は「隙間風」で冬。戦後住宅空間の大変化の一つは、隙間風が入らなくなったことだ。もはや、ほとんどの住居は密閉され、外気と遮断されている。昔は十一月ともなれば、夜の隙間風が心細いばかりに身に沁みたものだ。戸や障子の細い隙間から、鋭くて冷たい風が吹き込んできた。子供の頃の我が家では、壁の隙間からも風が入ってきた。あれは細い隙間から入ってくるので「隙間風」なのだが、掲句の場合には「かく隙ける」というくらいに細くはないところから、吹き込んできている。よほど建て付けの悪い家なのだ。「わらふべし」に漢字を当てれば「嗤ふべし」で、自宅だったら自嘲になるし、他家であれば怒りになる。いずれにしても、呆れるほどの隙間に癇癪を起こしている作者を想像すると、なんとなく可笑しい。これも俳味というものだろう。建て付けが悪いといえば、独身時代に住んだアパートはかなりのものだった。北向きの大きな窓が、どうやってもきちんと閉まらない。いつも、上か下のほうが少し開いたままなので、まさに隙間風様歓迎風の恰好であり、あまり寒い日には部屋でコートも脱がなかったことがある。ちゃちな電気炬燵くらいでは、背中に来る風の冷たさは防ぎようもなかった。で、ある朝目覚めると枕元に白い帯状のものが見えるので、何だろうと思ったら、寝ている間に隙間から吹き込んだ雪がうっすらと積っていたのでした。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 08112004

 柿博打あつけらかんと空の色

                           岩城久治

語は「柿博打(かきばくち)」で秋。忘れられた季語の一つ。私も、宇多喜代子が「俳句」に連載している「古季語と遊ぶ」ではじめて知った。要するに、柿の種の数の丁半(偶数か奇数か)で勝負を決めた賭博のことだ。種の数は割ってみなければわからないから、なるほど博打のツールにはなる。しかし、柿まで博打のタネにするとはよほど昔の人は博打好きだったのだろうか。とにもかくにも季語として認知されていたわけだから、多くの人が日常的にやっていたに違いない。たしかマーク・トゥエインだったと覚えているが、メキシコ人の博打好きをめぐって、こんなことを書いていた。彼らの博打好きは常規を逸していて、たとえば窓ガラスを流れ落ちてゆく雨粒でさえ対象にする。どちらの粒が早く落ちるかに賭けるのだ……。これを読んだときに思わず笑ってしまったけれど、どっこい灯台下暗しとはこのことで、我ら日本人も柿の種に賭けていたとはねえ。メキシコ人を笑えない。句の博打は、宇多さんが書いているように、退屈しのぎみたいなものなのだろう。勝っても負けても、ほとんど懐にはひびかない程度の賭けだ。だから「あつけらかん」。快晴の秋空の下、暇を持て余した人同士が、つまらなそうに柿を割っている様子が見えるようで、微笑を誘われる。「俳句」(2004年11月号)所載。(清水哲男)




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