アラファト議長死す。影響力は失っていたと言われるが、彼に代わる人物はいるのか。




2004ソスN11ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 12112004

 近海へ入り来る鮫よ神無月

                           赤尾兜子

日から陰暦十月、すなわち「神無月」。この月には、諸国の神々が出雲に集い会議を開くのだという。したがって、出雲では逆に「神有月」となる。議題はいろいろとあるらしいが、重要なものには人の運命を定めるというものがある。なかでも、誰と誰を結婚させるかについては議論が白熱する由。ただしこれは俗説で、「な」を「の」の意味にとって「神の月」とするのが正しいなどの諸説がある。それはともかく、神が不在ととれば、さして信心深くない人にも漠然たる不安感が湧いてくることもあるだろう。何となく心細いような意識にとらわれるのだ。そんな不安感を、いわば神経症的に造形してみせたのが掲句である。神の留守をねらって、獰猛な鮫が音もなく侵入してきつつある。それももう、すぐそばの「近海」にまで入り込んできたようだ。むろん陸地から鮫の姿を認められるわけではないが、そうした目で寒々と展開する海原を眺めれば、不気味さには計り知れないものがある。そんなことは夢まぼろしさと笑い捨てる読者もいるだろうが、ひとたび句の世界に落ちた読者は、なかなかこのイメージから抜け出せないだろう。妙なことを言うようだが、風邪を引いたりして心身が弱っているときなどに読むと、この句の恐さが身に沁みてくるのは必定だ。作者もおそらくは、そんな環境にあったのではあるまいか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 11112004

 金借りにきて懐手解かぬとは

                           ねじめ正也

語は「懐手(ふところで)」で冬。和服の袂や胸元に手を入れていること。手の冷えを防ぐ意味もあるが、句の場合には腕組みの意味合いが濃いだろう。「金借りに」きたくせに、なにやら態度が尊大だ。人にものを頼むのであれば、せめて「懐手」くらい解いたらどうだと、作者は内心で怒っている。それが、相手は貸してくれて当たり前みたいな、のほほんとした顔をしている。失礼な奴だ。と、表面的には解釈できるし、それでよいのかもしれないが、もう少し突っ込んでみることもできそうだ。つまり、作者は金を借りる側の気苦労を思っている。たぶん相手は旧知の間柄だろうから、こちらに弱みを見せたくないのだ。素直に頭を下げるには、プライドが許さない。だから無理をして、すぐにでも簡単に返済できる感じをつくろうために懐手をしてみせている。「解かぬとは」、逆に辛いだろうな。というように相手の心中が手に取るようにわかるので、作者もまた辛いのである。借金とは妙なもので、返済できるメドがついている場合には、少々まとまった額でも気軽に申し込むことができる。反対にたとえ少額でも、アテがないと、なかなか借してくれとは言いにくい。こうした知己の間の金の貸し借りに伴う心理的負担を無くしたのが、街の金融機関だ。心理的な負担よりも、高利を選ぶ人が多いということである。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


November 10112004

 花嫁の菓子の紅白露の世に

                           吉田汀史

語は「露の世」で秋。「露」に分類。この場合の「露」は物理的なそれではなく、一般的にははかなさの比喩として使われる。むなしい世。「花嫁の菓子の紅白」は、結婚式の引き出物のそれだろう。いかにもおめでたく、寿ぎの気持ちの籠った配色だ。それだけに、作者はかえって哀しみを感じている。結婚が、とどのつまりは人生ひとときの華やぎにしか過ぎないことを、体験的にも見聞的にも熟知しているからだ。といって、むろん花嫁をおとしめているのではない。心から祝いたい気持ちのなかに、どうしても自然に湧いてきてしまう哀しみをとどめがたいのである。たとえば萩原朔太郎のように、少年期からこうした感受性を持つ人もいるけれど、多くは年輪を重ねるにつれて、「露の世」の「露」が比喩を越えた実際のようにすら思われてくる。かく言う私にも、そんなところが出てきた。考えるに、だからこの句は、菓子の紅白をきっかけとして、思わずもみずからの来し方を茫々と振り返っていると読むべきだろう。同じ作者に「烏瓜提げ無造作の似合ふ人」がある。その人のおおらかな「無造作」ぶりを羨みながら、いつしか何事につけ無造作な気分ではいられなくなっている自分を見出して、哀しんでいるのだ。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)




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