また天気が下り坂に。こうして一雨ごとに寒さが募ってくるのでしょうね。やれやれ。




2004ソスN11ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 14112004

 紅葉の真ッ只中の力うどん

                           川崎展宏

天好日。全山紅葉。峠の茶屋(というのは、ちと古いか)のようなところで一休みして、うどんを食べている。食べるうどんは何でも構わないようなものだが、この場合はやはり「力うどん」がいちばん良く似合う。「キツネうどん」や「タヌキうどん」だと、いささか「力」不足。どこかひ弱な感じがしてしまう。真っ白なうどんに、真っ白な餅。いかにも盛り盛りと「力」が湧いてきそうではないか。「真ッ只中」という強い言葉に、少しも負けずに張り合えるのは「力うどん」しかないだろう。いつも思うのだが、町のうどん屋の店内はどうしてあんなに暗いのだろうか。西洋風レストランみたいな明るさのうどん屋には、お目にかかったことがない。あれはきっと、うどんの白を強調するための策謀じゃないかと思ったりするのだけれど、同様にそば屋だって暗いのだから、この推論は残念ながら間違いだ。でも、見た目も味の一部なのだから、何かもっともな理由がありそうである。そんなところで食べ慣れているうどんを、たまたま句のように明るい戸外で食べることがあると、東京辺りの真っ黒い(!)汁も意外に薄くて丼の底まで透けて見えるほどだ。となれば、うどん屋の照明はうどんの色を際立たせるためではなくて、むしろ汁の色加減に関係しているのだろうか。などと、埒もないことを考えるのも、俳句を読む楽しさにつながっている。「俳句研究」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


November 13112004

 霜除のあたらしく人近づけず

                           田中裕明

語は「霜除(しもよけ)」で冬。霜除というと、いまの北国の都会の人は、車のウィンドウのそれと反応するかもしれない。朝、出かけようとして、すぐに動かしたくても霜で前がよく見えないことがあるからだ。でも、句の場合は野菜や花などの霜除だ。強い霜がおりると、根の浅い宿根草は霜で株がもち上がって枯れてしまう。これを防ぐにはいろいろな方法が開発されているようだが、いちばん良いのは、昔ながらの藁(わら)を使うやり方だろう。たいていが今年穫れた新藁をかぶせていくから、かなり目立つ。なるほど、句のようにちょっと近寄りがたい雰囲気になる。同様に道の泥濘化を避けるために、昔は藁を敷き詰めることもやつた。こちらは踏んで通るために敷かれたわけだが、あれには何となく踏みづらい感じがあったことを思い出す。汚してはいけないという意識がどうしても先に出てきて、躊躇してしまうのである。正月には「福藁」(季語)といって、門口などに新藁を敷く地方があるが、あれを踏むのと同じ感覚だ。「福藁や福来るまでに汚れけり」(中条角次郎)と、昔の人はやはり気にして詠んでいる。それはともかく、霜除の藁は春になるころには腐葉土になる。霜除には藁が良いという大きな理由の一つだ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


November 12112004

 近海へ入り来る鮫よ神無月

                           赤尾兜子

日から陰暦十月、すなわち「神無月」。この月には、諸国の神々が出雲に集い会議を開くのだという。したがって、出雲では逆に「神有月」となる。議題はいろいろとあるらしいが、重要なものには人の運命を定めるというものがある。なかでも、誰と誰を結婚させるかについては議論が白熱する由。ただしこれは俗説で、「な」を「の」の意味にとって「神の月」とするのが正しいなどの諸説がある。それはともかく、神が不在ととれば、さして信心深くない人にも漠然たる不安感が湧いてくることもあるだろう。何となく心細いような意識にとらわれるのだ。そんな不安感を、いわば神経症的に造形してみせたのが掲句である。神の留守をねらって、獰猛な鮫が音もなく侵入してきつつある。それももう、すぐそばの「近海」にまで入り込んできたようだ。むろん陸地から鮫の姿を認められるわけではないが、そうした目で寒々と展開する海原を眺めれば、不気味さには計り知れないものがある。そんなことは夢まぼろしさと笑い捨てる読者もいるだろうが、ひとたび句の世界に落ちた読者は、なかなかこのイメージから抜け出せないだろう。妙なことを言うようだが、風邪を引いたりして心身が弱っているときなどに読むと、この句の恐さが身に沁みてくるのは必定だ。作者もおそらくは、そんな環境にあったのではあるまいか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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