November 162004
露店の子落葉を掃いて帰りけり
久松久子
季語は「落葉」で冬。最近は、とんと働く子供の姿を見かけなくなった。むろん、一般的にはそのほうが好ましい社会と言える。子供の頃に働いた経験のある人なら、誰もがそう思うだろう。この季節になると、井の頭公園の文化園前に車でやってくる焼き芋屋がいる。売り声は、小学校高学年くらいの女の子の声だ。いつ行っても「焼き芋〜、石焼き芋〜っ」とスピーカーから流れてくる。テープに仕込んであるわけだが、日曜などには声の当人とおぼしき少女がいることもある。けなげな顔つきだ。掲句の子も、おそらくそんな顔をしていたのではないだろうか。店を仕舞うときに、自分たちのために汚れたところをきちんと掃いて帰るのだ。落葉の季節には、それがまるで落葉掃きのように見えるので、作者はこう詠んだ。たとえメインの仕事は親がやっても、手伝う子供にも、ちゃんと後始末をさせる。これを常識では躾けと言うが、こうした躾けは働く現場がなくては身に付かない。といって、この句はべつに遠回しに教訓を垂れているのではなく、黙々と当然のように後始末をしている子のけなげな姿に、作者が特別ないとおしさを感じているということだ。それはまた、作者の小さかった頃の自分や友だちの誰かれの姿を思い出させてくれるからでもあるのだと思う。『青葦』(2004)所収。(清水哲男)
January 222005
山門の被疑者の写真雪催
久松久子
季語は「雪催(ゆきもよい)」で冬。寺の楼門にまで指名手配のポスターが貼ってあるとは、今まで気づかなかった。でも、観光客がたくさん集まるような名刹の「山門」であるならば、全国各地から人が訪れて来るので、「被疑者」情報を得る絶好のメディアではありそうだ。プロが考えることは、やはり一味も二味も違う。折りからの「雪催」。それでなくとも愉快ではない寒々しい手配ポスターが、雪催いとあいまって、余計に寒さを助長してくるのである。こうした手配写真に目が止まるとき、むろん人の反応は様々だろうが、多くはそう単純ではないだろう。誰もが、警察的な正義の味方として見るわけではあるまい。個人的には見ず知らず縁もゆかりも恨みも無い被疑者なのだから、こんな寒空の下のどこでどうやって隠れているのか、息をひそめているのかなどと、同情とまではいかなくても、ある種のシンパシーを覚えてしまうこともある。追われるのは自業自得ではあるにしても、大組織がしゃかりきになって一個人を追いつめることについては、どこか釈然としないものが感じられるからだろう。これがもし自分であれば、どう逃げているのだろうか。そのあたりまで、私はたまに想像が及ぶこともある。句の作者がどう感じたかの詳細は知る由もないけれど、やはりそこには単純でない想いがあったのだと思う。情景も灰色ならば、心のうちも灰色である。『青葦』(2004)所収。(清水哲男)
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