November 242004
寝酒おき襖をかたくしめて去る
篠田悌二郎
季語は「寝酒」で冬。元来は寒くて眠れない夜に、酒で身体を暖め、酔いの力を借りて眠ったことから冬の季語とした。が、いまでは季節を問わず、習慣としての寝酒が必要な人も多いだろう。冬の夜、いつものように妻が寝酒を用意してくれ、いつものように書斎(でしょうね)に置いていった。で、「襖をかたくしめて去る」というのだが、ここが実はいつもとは違うのである。好人物の読者であれば、隙間風が入らないようにいつもの夜よりも「かたく」しめたと受け取るかもしれない。でも、妻の行為として「去る」の措辞ははいかにも不自然だ。二人の間に何があったかは知らないけれど、句は一種の神経戦の様相を描いたようにうかがえる。いつもの妻のつとめとして、寝酒だけは用意する。しかし、それはあくまでも義務を果たすというだけのことで、言葉ひとつかけるわけでもなく、完全によそよそしい態度なのだ。よそよそしくも念入りに、無言のまま襖を「かたく」しめるという意地の悪さ(としか思えない)。それでなくとも寒い夜が、作者には心底冷え冷えと感じられたことだろう。たとえ神経戦の中味は、作者の非が原因であろうとも、こうした陰湿なふるまいに、たいていの男はまいってしまう。むろん私にも同種の覚えがあることなので、こう読んでしまったわけだ。たぶん、正解だと思いますよ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
August 282005
大瀑布ひとすじ秋の声を添ふ
篠田悌二郎
季語は「秋の声」。ものの音、ものの気配に秋をききつけるのである。心で感じとる秋の声だ。「瀑布(ばくふ)」は滝のことだが、作者は大きな滝の落ちる「音」に「秋の声」を聞き取ったのではあるまい。日は中天にあって,なお真夏のように暑いのだけれど、滝に見入っているとどことなく秋の気配が感じられたということだろう。「ひとすじ」とあるが、これもまた具体的な滝の一部を指しているのではなく、「秋の声」のかすかな様子を表現している。「ひとすじ」「添ふ」の措辞が、非常に美しい。ところで歳時記をめくると、この「秋の声」は「天文」の部に分類されている。私などはむしろ「時候」の部に入れたほうがよいのではと思うのだが,なぜ「天文」なのだろうか。こうした分類法が合理的でないと言ったのは,俳句もよくした寺田寅彦であった。「今日の天文學(アストロノミー)は天體、即、星の學問であつて氣象學(メテオロヂー)とは全然其分野を異にして居るにも拘らず、相當な教養ある人でさへ天文臺と氣象臺との區別の分らないことが屡々ある。此れは俳諧に於てのみならず昔から支那日本で所謂天文と稱したものが、昔のギリシャで「メテオロス」と云つたものと同樣『天と地との間に於けるあらゆる現象』といふ意味に相應して居たから、其因習がどうしても拔け切らないせゐであらう」(随筆「俳句と天文」)。すなわち、歳時記の分類法は科学的にはすこぶる曖昧なのだ。最近、歳時記の季節的分類の矛盾(たとえば「西瓜」や「南瓜」を秋季とするような)を修正する動きが出て来たが、もう一歩進めて、こちらの分類法も考えなおしてほしいものだ。せっかくの分類も、分りにくくては話にならない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
November 102005
蜜柑山の中に村あり海もあり
藤後左右
季語は「蜜柑(みかん)」で冬。近所の農家の畑に、数本の蜜柑の木がある。東京郊外で、昔は畑ばかりだった土地柄とはいえ、蜜柑の栽培は珍しい。通りかかると、今年もよく実っている。やわらかい初冬の日差しを受けて、黄色い実が濃緑の葉影にきらきらと輝いてい見える様子は、まことに美しい。「全て世は事もなし」、そんな平和な雰囲気に満ちている。心が落ち着く。掲句のように本格的な密柑山は見たことがないのだが、そんなわけで、ある程度の想像はつく。全山の蜜柑に囲まれて「村」があり、しかも「海も」あるというのだから、まるで一幅の絵のようである。この句に篠田悌二郎の「死後も日向たのしむ墓か蜜柑山」を合わせて読むと、それぞれの密柑山は別の場所のものだけれど、そのたたずまいが目に沁みてくる。ところで、我が家の近所に実った蜜柑を一度だけ食べたことがある。昨年の冬だったか。この農家では収穫後に即売をするらしく、ちょうどいま買ってきたところだと言って、近所の煙草屋のおばさんにいくつかもらった。おそらく、紀州蜜柑の系統なのだろう。小ぶりではあったが、とても甘くて美味しかった。今年も即売があるのなら、ぜひ買いたいとは思うのだが、その日については昔からのつきあいのある人にだけ教えるらしい。そりゃそうだ。たいした量が収穫できるわけでなし、即売とはいえ、ほとんどお裾分けに近い値段のようだし……。ま、余所者は黙って指をくわえているしかないだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
November 162007
寒鮒のあを藻ひとすぢからみたる
篠田悌二郎
鮒の引きは独特。長く細いウキが単純に一気に潜る釣堀で釣るヘラ鮒ではなく、「野生」の真鮒の話である。真鮒はウキがまずちょんちょんと上下し、やがて横につうと動き、そこから一気に潜る。潜るまでに竿を上げると逃げられる。この横に動くところがなんとも言えずスリリングで鮒釣りにはまるのである。生まれて初めて竿で魚を釣ったのが、小三のとき。鳥取市の城跡のお堀でクチボソがかかってくれた。それまでは、タモを水中や泥の中で振り回しての小えびやメダカやトンボのヤゴが獲物だった。掻き回すからタモはすぐ破れ壊れる。何度も補修を重ねて、タモはたちまち網の部分が小さくなった。腰の辺りまで泥に没しての大奮闘からクチボソを竿で釣るまで三年かかった。そこからシマミミズを用いての鮒釣りまでに二年。クチボソ三年鮒五年。鮒はアタマがいいので、釣る方の成長も必要なのであった。寒鮒は水温が低いため、底の方にじっとしている。それを釣り上げるから「あを藻」がからむ。この「あを藻」が映像の焦点。リアリティの根源である。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)
March 212011
雨寒し春分の日を暮れてまで
篠田悌二郎
まるで今日という日に詠まれたような句だ。実際、昨日の天気予報によれば、今日は全国的に雨模様である。句では朝から春雨と呼ぶのがはばかられるような冷たい雨が降り、暮れてもなお降り続いている。晴れていれば、少しくらい寒くても「春分の日」と思うだけで心和むところだが、雨降りだと逆に「春分の日」であることが恨めしくさえ思えてくる。寒さが、ひとしお身にしみる。ましてや今年は地震津波による大災害のあとだけに、いっそう暗く寂しい思いに沈み込む人は多いだろう。祝日法では「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としているが、今年はすべての自然を素直に「たたえる」気にもなれない。週末あたりには桜が咲きはじめる地方もあるようだが、花見どころではない人たちのことを思うと、うかれ気分にはなれそうもない。いま全国でこの句を目にしているみなさんも、おそらく同じ気持ちでおられるだろう。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)
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