December 132004
わが影を壁に見てゐる炬燵かな
大崎紀夫
季語は「炬燵(こたつ)」。孤影。というと大袈裟になるが、深夜、ふっとおのれが一人きりになった感じを言い止めている。これがリタイアした高齢者の句だとさして面白みは無いけれど、このときに作者は四十代の後半だ。まさに、働き盛りである。日頃の仕事や雑事に追われて、自分を顧みる余裕などはなかなか無い。それが、自宅の炬燵でくつろいでいるうちに、いつの間にか壁に写った「わが影」を見ている自分がいた。これがオレなのか……。壁の影を見つめる行為には、鏡を見るのとは違って何の目的も無い。だからこそ余計に、さまざまなことに思いが至るきっかけになる。オレはいったい何をしているのか、何をしてきたのか……。自分の存在が卑小にも見え、心はかじかんでくる。明日になればケロリと忘れてしまう感慨ではあろうが、この種のひとりぼっちの実感を持つことは、その人の幅を育てるだろう。以下雑談だが、掲句から作者の部屋の炬燵の置かれた位置がわかる。かなり壁際に近い場所に置かれてないと、横の壁に自分の影は写らない。もちろん他の家具の配置との関係もあるが、たいていのお宅ではそのように置かれているのではあるまいか。そして来客のあるときだけ、真ん中辺に持ってくる。でも、部屋の真ん中にある炬燵は、何故か落ち着かないものですね。旅館などで真ん中に置かれていると、私は必ず壁際にずるずると移動させてからあたることにしています。貧乏性なのかなあ、とても殿様の器ではない。『草いきれ』(2004)所収。(清水哲男)
April 092008
恋猫のもどりてまろき尾の眠り
大崎紀夫
猫の交尾期は年に四回だと言われる。けれども、春の頃の発情が最も激しい。ゆえに「恋猫」も「仔猫」も春の季語。あの求愛、威嚇、闘争の“雄叫び”はすさまじいものがある。ケダモノの本性があらわになる。だから「おそろしや石垣崩す猫の恋」という子規の凄い句も、あながち大仰な表現とは言いきれない。掲出句は言うまでもなく、恋の闘いのために何日か家をあけていた猫が、何らかの決着がついて久しぶりにわが家へ帰ってきて、何事もなかったかのごとくくつろいでいる。恋の闘いに凱旋して悠々と眠っている、とも解釈できるし、傷つき汚れ、落ちぶれて帰ってきて「やれやれ」と眠っている、とも解釈できるかもしれない。「まろき尾」という、どことなく安穏な様子からして、この場合は前者の解釈のほうがふさわしいと考えられる。いずれにせよ、恋猫の「眠り」を「まろき尾」に集約させたところに、この句・この猫の可愛さを読みとりたい。飼主のホッとした視線もそこに向けられている。猫の尾は猫の気持ちをそのまま表現する。このごろの都会の高層住宅の日常から、猫の恋は遠のいてしまった。彼らはどこで恋のバトルをくりひろげているのだろうか? 紀夫には「恋猫の恋ならずして寝つきたり」という句もあり、この飼主の同情的な視線もおもしろい。今思い出した土肥あき子の句「天高く尻尾従へ猫のゆく」、こちらは、これからおもむろに恋のバトルにおもむく猫の勇姿だと想定すれば、また愉快。『草いきれ』(2004)所収。(八木忠栄)
April 142014
花びらの転げゆく駅ホームかな
大崎紀夫
今年の花もおわりだな。そんな一瞬の感慨を覚える場所や時間はひとさまざまだが、作者はそれを駅のホームで実感している。たぶん乗降客の少なくなった昼さがりなのだろう。ふと足元に目をやると、どこからか飛んできた桜の花びらが、風に吹かれて転がっていった。目で追うともなく追っていると、束の間ホームにあった花びらは、やがてホームの下に姿を消していく。どこから飛んできたのか。思わず桜の木を探すように遠くに目をやる作者の姿が想像される。こうやって桜の季節はおわり、あっという間に若葉の美しい日々が訪れてくる。年々歳々同じ情景の繰り返しのなかで、しかし人は確実に老いてゆくのだ。そんなセンチメンチリズムのかけらをさりげなく含んだ佳句だと読めた。『俵ぐみ』(2014)所収。(清水哲男)
October 012014
里芋の煮つころがしは箸で刺す
大崎紀夫
私たちがふだん「里芋」と呼んでいる芋にも種類があって、ツルノコイモとかハタケイモをはじめ、品種が多いようだ。山形県ではじまった、この時季の「芋煮会」なるものはどこでも行われるようになってきた。里芋にはいろいろなレシピがあるわけだが、素朴な「煮っころがし」が最もポピュラーで、好まれていると言っていい。丸くてぬめりがあるから、お行儀よく箸でつまむよりは、手っとり早く箸で刺したほうが確実にとらえて口に運べる。掲出句はお行儀よく構えることをせず、そのことを詠んだもの。「本膳」という落語がある。庄屋に招かれた村人たちが、あらかじめ手習いの師匠から「本膳での食べ方は私の真似をするように」と教わって出かける。席で師匠が里芋の煮っころがしをうっかりとりそこなって転がすと、村人がいっせいに箸で里芋をつついてそれを転がすという、にぎやかなお笑いの場面がある。ついでに、落語家の間では「ライスカレーは匙で食う」という、当たり前すぎて笑える言い方がある。釣師でもある紀夫には「ぎぎ釣るやぎぎぎぐぎぐぎぐうと泣く」という妙句がある。『俵ぐみ』(2014)所収。(八木忠栄)
September 222015
秋の蝿日向日向へ身をずらす
大崎紀夫
秋になって命終が近づきつつある蝿に思う哀れが季題となっているのは秋の蝿のほかにも秋の蚊や秋の蝶があるが、秋の蝿にはひとしおの物悲しさが感じられる。以前、蝿は食べ物に止まり、病原菌を媒介する厄介な虫の代表であったが、住環境の向上により近年では激減した。家庭には必ずといってあった蝿叩きや、蝿帳もいつのまにか姿を消している。普段見かけないうえに、日差しも頼りない秋になってから見つける蝿には、憎い存在というより、発見の喜びすらあるような気がする。掲句でも日向から日向へと弱々しく移動する蝿に感じているのは、おそらく自分の日向まで明け渡すこともやぶさかではない同情の視線である。ぬくもりを探しながら生きていくことの愛おしさが、「ずらす」といういじらしい移動表現となったのだろう。『虻の昼』(2015)所収。(土肥あき子)
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