スーパーのチラシに南瓜。そうか明日は冬至なんだと、チラシで季節の移り行きを知る。




2004ソスN12ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 20122004

 集乳缶深雪を運び来て冷めず

                           中川忠治

人協会会員を対象にした「第11回俳句大賞」で、最高点を得た句。選考委員のなかで、この句を最も推したと思われる鈴木貞雄の選評は次のようだ。「山の牧場であろう。決まった時間に搾乳室で牛の乳を搾り、大きな集乳缶に入れて運んでくる。深雪をきしませ、白い息を吐きながら運んでくるのだ。しかし、集乳缶の中の乳は、搾った時のままの温さを保っている。深雪の中に生きる乳牛の命の温みが、伝わってくるようである」。解釈としては、この通りだろう。が、この句のいちばんのチャーム・ポイントを言うとすれば、もう少し付け加える必要がある。それは、句に二つの主体が出てくる点だ。すなわち「集乳缶」を運んでくる主体と「冷めず」と断定している主体とは、明らかに違う。前者の主体は牧場の人であり、後者のそれは作者である。もとよりこうした主体入れ替えの手法はさして珍しくはないけれど、一句のどのあたりで入れ替えるかがポイントだ。作者の、いわばセンスの見せどころとなる。掲句では、それが最後の三文字「冷めず」で適用されており、その唐突さによって読者への衝撃力が高まった。つまり内容的にはあくまでも暖かい句なのだが、手法的にはクールそのものである。この段差が、句を引き締めている。俳人協会機関紙「俳句文学館」(第404号・2004年12月5日付)所載。(清水哲男)


December 19122004

 賀状書く心東奔西走す

                           嶋田摩耶子

語は「賀状書く」。私もそうだが、今日あたりは賀状書きに専念する人が多いだろう。そういう日に読むと、この句はまさにどんぴしゃりだ。「東奔西走(とうほんせいそう)」には、二つの意味が重ねあわされていると思う。一つは、賀状の宛先は全国各地に散らばっているので、それぞれの地域に束の間あわただしく思いを馳せての「東奔西走」である。もう一つは、賀状書き以外の年用意のことが気になってのそれだ。賀状書きも大事だけれど、新年を迎えるまでにやるべきことが他にもたくさんある。書きながら、ついつい他のあれもこれもと「心」が飛び回り、なかなか落ち着けない状態を言っている。むしろ後者の意味に、句の比重がかけられているような……。もっとも、最近は宛名をプリンターで刷りだしている人が増えてきたので、前者のような心持ちは薄れているだろう。私は宛先のみ、いまだに手書きだ。受け取る相手に失礼というよりも、どこかを手書きにしないと出した実感が残らないからである。手応えが無い。さて、今日は何枚書けるだろうか。年内の原稿仕事も何本か残っていて、しかも締め切り日が過ぎているのもあって、きっと「心」は大いに「東奔西走」することだろう(笑)。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


December 18122004

 クリスマス妻のかなしみいつしか持ち

                           桂 信子

前の句だ。結婚して、何廻り目かの「クリスマス」。気がついてみたら、乙女時代のちょっと浮き浮きするような気分とは程遠くなっていた。結婚前には予測もつかなかった諸々の事情が身辺に生じてきて、もはやクリスマスをロマンチックに捉えることなどできない心境だ。その「かなしみ」。現代とは違い、昔の嫁は様々な社会的なしがらみにしばられていたので、精神的にも自由であることは難しかったろう。ましてや、クリスマスの頃は多忙を極める年の瀬だ。普段以上に何かと負担がかかり、ハッピー・ホリデーなどは完全に他人事でしかない。昔の「妻」が世間をはばからずに休めるのは、年も明けてからの女正月(「小正月」とも。冬の季語)くらいのものであった。ただ、当時は時局も戦争へと雪崩をうっていたので、女正月を祝う風習も形骸化していたのではあるまいか。掲句を詠んでからしばらくして、作者は夫に先立たれている。「夫逝きぬちちはは遠く知り給はず」。珍しい無季の句で、それだけに茫然としている様子が直裁に伝わってくる。また一方では、遠くにいる両親に早く知らせねばと、気丈な気遣いが芽生えているのが哀しい。作者は、一昨日(2004年12月16日)九十歳で亡くなられた。合掌。『月光』(1948)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます