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2004ソスN12ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 24122004

 火が熾り赤鍋つつむクリスマス

                           小松道子

ち着くところ、このあたりが現代日本家庭でのクリスマスイブの過ごし方だろうか。「聖菓切るキリストのこと何も知らず」(山口波津女)でも、それで良いのである。家族で集まって、ちょっとした西洋風のご馳走を食べる。「赤鍋(あかなべ)」は銅製の鍋だから、句のご馳走は西洋風鍋料理だろう。「火が熾(おこ)り」、炎が鍋をつつむようになると、みんなの顔もぱっと赤らむ。ここで、ワインの栓を抜いたりする。TVコマーシャルにでも出てきそうなシーンだが、ささやかな幸福感が胸をよぎる頃合いである。その雰囲気が、よく伝わってくる。しかし私など、クリスマス行事そのものを小学校中学年で知った世代にとっては、こうした情景にまさに隔世の感を覚える。信じられないかもしれないが、私は十歳くらいまでサンタクロースを知らなかった。絵で見たこともなかった。物心つくころには戦争中だったので、少し上の世代ならば誰もが知っていた西洋常識とは、不運にも遮断されてしまっていたわけだ。そしてクリスマスのことを知ってからも、しばらくはイブというと大人たちがキャバレーなどで大騒ぎするイメージが一般的だった。キリスト者の景山筍吉が詠んだ「大家族大炉を囲む聖夜哉」というような情景は、ごく稀だったろう。「針山に待針植えて妻の聖夜」(原子公平)。いささかの自嘲が籠っている感じはするけれど、こちらが一般的だったと言える。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 23122004

 師のたより待つ数へ日の数へごと

                           深谷雄大

語は「数へ日」。年も押し詰まって、残る日数が指を折って数えられるほどになった頃のこと。今年も、あと十日を切ってしまった。年用意などあまりしない私だが、それでもやはり少々焦ってくる。日に何度かは、あと何日とカレンダーで確認したりしている。句の作者は、そんな「数へ日」のなかで「師」から来るはずの「たより」を待っている。年末くらいまでという約束で、何かをお願いしているのだろう。依頼の中味は、早く届けば早いほど嬉しい性質のものに違いない。しかし、誰もが忙しい歳末だ。電話で催促がましい事を言うのもはばかられて、今日か明日かとただひたすら待つしかないのである。すなわち、「数へ日」のなかの別の「数へごと」にも心を砕いている……。年末の「数へ日」のなかに、いわば年末とは限らない日常的な「数へ日」が混在している恰好だ。言われてみればこういうこともありうるわけで、多く「数へ日」の句が年用意の多忙に焦点を絞って詠まれているなかでは、目のつけどころが面白い。しかも相手が「師走」の「師」とくれば、にやりとさせられた読者もいるのではなかろうか。ところで「数へ日」という季語が定着したのは、意外なことに三十年ほど前のことだという。まだ新しい季語なのだ。なるほど、手元の1950年代に刊行された角川版歳時記には載っていない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 22122004

 風邪引いて卵割る角探しをり

                           田中哲也

語は「風邪」で冬。どういうわけか、毎年この時期になると風邪を引く。昨年も引いたし、一昨年も引いた。そして、また今年も。寝込むほどではないのだけれど、それでなくとも気ぜわしい折りの風邪は鬱陶しい。句の作者は思いついて、風邪引きの身になにか暖かいもの、たとえば卵酒のようなものを作ろうとしているのだろう。ふだんから台所仕事をしていればこんなことは起きないが、たまに厨房に立つと、意外なところで戸惑ってしまうものだ。卵なんぞはそこらへんの適当な「角」で割ればよさそうなものだが、それがそうでもないのである。割りようによっては失敗することもあるし、打ち付けた調度の角を傷つけてしまうかもしれない。要するに卵を割るときの力の入れ具合(コツ)がわからないから、こういうことが起きるわけだ。鼻水をすすりながら、束の間あちこちに目をうろうろさせている作者の姿は滑稽でもあるが、私のように平生から台所に無縁のものからすると、大いに同情を覚える。ぼおっとした頭で「角」を探すのと同じ行為は、誰にでもその他の生活シーンではあることだと思う。ならば台所慣れしている人が何の角で割っているかというと、ほとんどが無意識のうちに割っているので、あらためて聞かれてもわかるまい。でも、台所に立てばきちんと割れる。頭で考えてから割るのではなく、身体が自然にそうしているのだ。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)




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