アメフト日本一を決めるライスボウル。この極度に分業化されたスポーツこそ現代的だ。




2005ソスN1ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0312005

 はや不和の三日の土を耕せる

                           鈴木六林男

句で「三日」といえば、今日一月三日のこと。三が日の最後の日。「三日正月」と言うように、この日までは誰もがのんびりとくつろぐ。が、作者ははやくも畑に出て耕している。家にいても、面白くないからだ。いくら年が改まろうとも、そう簡単に人間関係は改まらない。正月というのでお互いに我慢していたけれど、それも今日で限界。ぷいと家を出て、しかし行くところもないから、仕方なく畑仕事をしているという図だ。通りがかりの人から不思議そうに見られても、致し方なし。まことにもって、人間関係とは厄介なものです。同じように家を出るのなら、「顔触れも同じ三日の釣堀に」(滝春一)というふうでありたい。呑気でよろしいが、でも、これもいささか侘しいかしらん。「三ヶ日孫の玩具につまづきぬ」(青木よしを)。つまづきながらも、上機嫌なおじいちゃん。わかりますね。やっぱり「つまづ」こうがつんのめろうが、こんなふうにして家にいられるのがいちばんだ。ところで、本日の諸兄姉や如何に。私は、煙草を買いに出るくらいのものでしょうかね。ありがたし。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0212005

 妻の過去わが過去賀状とみに減る

                           野木野雨

婦といっても、もとは他人だ。お互いに知らない「過去」を持つ。「賀状」が配達されるてくると、そのことを強く感じる。自分が知らない名前の人から相手に来ている賀状は、いやでも別々の過去があったことを印象づける。どんな友人からなのか、どんな付き合いのあった人からなのだろうか。若い頃には、いささか気になったりするものである。が、年を重ねていくうちに、だんだん賀状が減ってくると、二人への過去からの便りも少なくなり、気にしていた頃が華(はな)だったなと思うようになってくる。どんな関係の人からであろうとも、数多く来ているうちが所帯の盛りなのだ。「とみに」減った賀状の束をいとおしみながら、作者はあらためて夫婦の来し方に思いを去来させているのだろう。そういえば、こんなこともあったっけ。「たゞごとの如き賀状や秘めし意酌む」(藤波銀影)。むろん異性からの賀状だろうが、相手は誰に見られてもよいように、淡々と「たゞごと」のような書きぶりしかしていない。が、受け取ったほうには「秘めし意」がよくわかるというのである。知能犯ですな(笑)。かと思えば、たくさん来てはいても、こういう淋しさもある。「賀状うづたかしかのひとよりは来ず」(桂信子)。今年から、今日二日にも配達がある。「かのひと」からの賀状を期待している人は、内心ドキドキなのでしょうね。賀状は小さなドラマ台本だ。『俳句歳時記・新年の部』(1956・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 0112005

 初茜鶏鳴松をのぼりけり

                           櫛原希伊子

けまして、おめでとうございます。この清冽な抒情句をもって、2005年のスタートとします。季語は「初茜(はつあかね)」で新年。初日の出る直前の東の空はほのぼのと明るくなり、やがて静かに茜色がさしてくる。身も心も洗われるように清々しくも、しかし束の間のひとときだ。とりわけて、電灯の無かった時代の人々には、待ちかねた新年の光に心の震える思いがあっただろう。その昔から現代にいたるまで、いまの都会では無理だとしても、この時間になるといちばんに雄鶏が「咽喉(のんど)の笛を吹き鳴らし」(島崎藤村「朝」)てきた。その雄叫びにも似た「鶏鳴(けいめい)」は、句の作者も自注で記しているように、赤のイメージだ。その赤き声が、茜空をバックに黒々と大地に根を生やした「松」の大木にのぼってゆく……。まさに、自然が巧まずして描き上げた一幅の画のようではないか。いや、句の作者その人が巧まずして描いたからこそ、そのように受け取れるのだ。このような句に出会うとき、俳句という文芸を知っていて良かったと、しみじみと思う。この毅然とした鶏鳴が、なにとぞ本年の世界中の人々の幸せにつながりますように。祈りながら、今年も当サイトを増殖させてゆく所存です。よろしく、おつきあいくださいますように。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)




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