January 042005
今ここで死んでたまるか七日くる
山本有三
作者は『女の一生』『路傍の石』『真実一路』などで著名な小説家にして劇作家。季語は「七日」で一月七日のことだ。1974年(昭和四十九年)の今日、山本有三は伊豆湯河原の自宅で高熱を発し、翌日に国立熱海病院に入院した。そのときの句だというが、当人以外には意味不明である。「七日くる」とは、何を言っているのだろうか。強いて理屈をつければ、七日は「七種(ななくさ)」なので、七草がゆを食べれば病気を免れるとの言い伝えがあることから、なんとか七日までは持ちこたえたいと思ったのだろうか。しかし、高熱に苦しむ人が、悠長にそんなことを思ったりするだろうか。他に何か、七日に個人的に大切なことがあったのだろうと読むほうがノーマルかもしれない。いずれにしても、私が掲句に関心を持ったのは、寿命いくばくも無いと自覚した作家が、五七五のかたちで思いを述べている点だ。辞世の句を詠むなどという気取った意識もなく、作品として提出しようとする意図もむろん無く、ほとんど咄嗟に五七五に思いを託している。俳句というよりも、これほどまでに五七五の韻律は瀕死の人までをも巻き込むものなのかと、粛然とさせられてしまう。くどいようだが、彼はプロの小説家であり劇作家だったのだ。結局、山本有三は一進一退の病状のうちに「七日」を越えて、十一日に死去した。八十六歳だった。余談ながら、現在、彼の作品は全教科書から姿を消してしまったという。赤瀬川原平『辞世のことば』(1992)所載。(清水哲男)
January 072013
不機嫌に樫の突つ立つ七日かな
熊谷愛子
季語は「七日」で、一月七日のこと。習慣的に関東の松の内は七日まで(関西では十五日までとされているが、最近ではどうなのだろう)だから、今日で正月も正月気分もおしまいだ。多くの人にとって、正月は非日常に遊ぶ世界ではあるが、三が日を過ぎるあたりから、その非日常の世界を日常が侵食してくる。お節に飽きてきてカレーライスを食べたくなったり、ゴミの収集がはじまったりと、非日常が徐々に崩れてくる。同じ作者に「初夢の釘うつところ探しゐて」という句があり、ここでは早々に日常に侵入されてしまっている。客の多い家ともなると、主婦が非日常に遊ぶなんてことは不可能だ。それでもまあ、松の内という意識があるから、なんとなく七日くらいまでは正月気分をかき立てているわけだ。この句は、そんな気分で七日を迎えた主婦が、久しぶりに醒めた視線でまわりの景色を見渡したときの印象だろう。樫の木が不機嫌そうに立っているのが、目についた。なんだか人間どもの心理的物理的な落花狼藉の態を、ひややかに見つめつづけていたような雰囲気である。この樫の木の不機嫌も、やがては日常の中に溶けて消えてしまうのだが、今日七日のこのひんやりとした存在感は、特別に作者の心に突き刺さったのだった。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
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