雪の予報に煙草の買いだめ。まずは一安心。長靴がないのでエラい目にあったことあり。




2005ソスN1ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1512005

 日の中に娘の町や初電車

                           佐分靖子

語は「初電車」で新年、「乗初(のりぞめ)」に分類。昔は新年に初めて馬やかごに乗ることで、交通機関が発達していなかったころには、いかにも「初」という新鮮な感じが持てたのだろう。現代人はいつ乗ったのが「初」だったかしらんと、それほどに電車などは日常の生活に溶け込んでしまっている。が、私もそうだけれど、作者も普段はあまり電車に乗らない人なのではないだろうか。だから、くっきりと「初」の意識が持てたのだと思う。目的の駅までの途中で「娘の(暮らす)町」を通りかかり、その「町」に燦々と「日」が注いでいるのを見て、なんとなく我が娘の元気で幸福な姿が想われたという親心。いかにも「初電車」にふさわしい明るい句だ。作者のこれから訪ねて行く先にも、何か楽しいことが待っているのだろう。そういえば、今日15日は「女正月」だ。その昔、正月に忙しかった女性がこの日は家事から解放され、ゆっくりと骨休めができる日だった。映画や芝居見物に出かけたり、年始の挨拶に回ったり、地方によっては女だけで酒盛りをする風習があったと聞く。掲句は現代の作だから、もはや女正月でもなかろうが、俳句の文脈のなかで読んでいると、ふっと今日という日にぴったりの気もしてくる。では、女だけの酒盛りの果ての一句を。「女正月一升あけて泣きにけり」(高村遊子)。いやはや、お賑やかなことで……。『若狭ぐじ』(2004)所収。(清水哲男)


January 1412005

 熱燗や子の耳朶をちょとつまむ

                           辻貨物船

語は「熱燗(あつかん)」で冬。今日は五年前に逝った辻征夫の命日、私は彼の俳号から勝手に「貨物船忌」と呼んでいる。彼の詩にもよく子供が出てくるが、問わず語りに娘さんの話をすることも多かった。子煩悩だったと言ってよいだろう。最後になった写真には、亡くなる直前に成人式を迎えた晴れ着の娘さんと並んで写っている。成人式がそれまでの一月十五日ではなく、第二月曜日に移動したおかげで、彼は「耳朶(みみたぶ)を」つまんだ「子」の晴れ姿を見ることができたのだった。世の中、何がどう幸いするかわからない。以下に少し長くなりますが、没後二年目の命日に出た『ゴーシュの肖像』(書肆山田)への私の感想を載せておきます。・・・「二年前に急逝した詩人が、折りに触れて書いた散文を集めた本だ。めったにやらなかった講演の記録も、いくつか納められている。/早すぎた詩人の晩年を、私は共に飲み、句会などで共に遊んだ仲である。読んでいると、いろいろなことが思い出される。けれども、不思議に悲しくはならない。おそらく、それは辻征夫の文体の持つ力によるものだろう。そう、合点できた。文体は生き方の反映だ。/詳しくは書かないが、彼は治癒不可能といわれた難病にとりつかれていたのに、文章の上でも日常でも、一言も弱音を吐くことはなかった。だんだん身はひょろひょろと立ちゆかないのに、ひょうひょうとしていた。いつだって、微笑していた。本書を読んでわかったことは、それが単なるやせ我慢から来ているものでは、断固としてないということだ。/集中に「手にてなすこと」と題された短文がある。中原中也の名篇「朝の歌」の冒頭の詩に触れ、「みな何ごとかに従事して、生計を立てている」ことへの思いを述べた一文だ。辻は中也のように親からの仕送りで生きるわけにもいかず、「私は手を使いどおしだった」と書く。ここには、ごく普通の生活者の生き方がある。辻のような才能溢れる詩人でも、満員電車に揺られて生きていかねばならない。それが、世間というものではないか。誰だって、仕方ないなとあきらめている……。/しかし、満員電車に揺られながらも、次のように言えるのが、辻征夫なのだ。「では労働と詩は両立するのか。私は根本のところでしないと考えている。私の全作品を眼の前に置かれても、首を横に振る」。/この一言が、辻征夫の真骨頂である。かくのごとき過激な物言いは、生半可な詩への愛情から生まれるものではない。十五歳にして詩の魅力にとりつかれ、詩を心から愛した男の、これは真実の苦しみの告白と言ってよい。文体の強さ明るさの秘密は、この生涯の苦しみの土台の上にある」。合掌。句は『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


January 1312005

 父の死や布團の下にはした銭

                           細谷源二

語は「布團(蒲団・ふとん)」で冬。ながらく寝たきりに近かった「父」が死んだ。長い間のべられたままだった「布團」をあげてみると、下からいくばくかの「銭」が出てきたというのである。それも、布団の下に大事にかくしておくほどでもない、ほんの「はした銭」だった。みっともないと突き放した詠みぶりだが、その哀れさが逆に父への親しみを増し、作者はうっすらと涙を浮かべているのではあるまいか。いまにはじまったことではないが、年寄りの金銭に対する執着には凄いものがある。何事につけ、最後に物を言うのは金だからだ。若いうちなら「金は天下の回りもの」ですむものが、社会的な経済サイクルから外に出てしまった老人には、そんな気休めは通用しない。収入はゼロであり、蓄えは減ってゆくばかりという生活が長ければ長いほど、よほどの資産家でもない限りは、生活の不安にさいなまれる。体力が衰え、家族としての役割も無くなっていくなかで、金さえあれば多少は人も相手にしてくれることを知っているから、たとえ「はした銭」であろうが握りしめて放さない。私くらいの年齢になれば、この心情は痛いほどによくわかる。他人事ではない。昨今の年金問題を考えるにつけ、政治家どもはこうした年寄りの不安を少しも理解していないなと、痛切に思う。いや、政治家だけとは言えないな。若くて元気な人々も、いずれはおのれが高齢になることを忘れているかのようだ。高齢者に対して、多く世間が偽善的にしかつきあわないのは、そのせいだとしか思えない。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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