昨日は早朝迄ご迷惑をおかけしました。原因はスプリッターの腐食と判明。想定外事故。




2005ソスN1ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1912005

 声高になる佐渡よりの初電話

                           伊藤白潮

語は「初電話」で新年。掲載時期が遅すぎた感もあるが、旅先からの「初電話」なので、松を過ぎてもあり得ることだ。作者は千葉県在住。したがって、日常的には佐渡ははるか遠方である。その遠方に来ての電話だから、自然に「声高に」なったというわけだ。佐渡の様子を新春に報告する気のたかぶりのせいもあるだろうが、それよりも遠方から電話をかけている意識から声高になったと解したい。昔の遠方同士の電話だと、たしかに大声でないと聞こえにくい場合があったけれど、今日では単に遠方が原因で聞こえにくいことは稀だろう。だからことさらに声高になることもないのだが、遠いと思うとつい大きな声で話してしまう心理とは面白いものだ。他人事ではなく、ラジオの新米パーソナリティだったころの失敗談がある。スタジオと都内を結ぶ電話でインタビューするときと九州や北海道間のそれとで声の大きさが違ってしまい、しばしば技術マンに注意を受けたのだった。放送では本番前に回線状態をチェックするので、都内であろうと遠方であろうと、同じようにクリアーな状態で通話ができる。それなのに……、というわけだ。遠方との通話だからといって、いきなり声をはりあげられたら技術者はたまらない。この句は、そんな懐かしい日々にも想いを誘ってくれた。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(清水哲男)


January 1812005

 南天よ巨燵やぐらよ淋しさよ

                           小林一茶

語は「南天(の実)」と「巨燵(こたつ・炬燵)」。前者は秋で後者は冬の季語だが、もう「巨燵」を出しているのだから、後者を優先して冬期に分類しておく。なにしろわび住まいゆえ、部屋の中の調度といえば「巨燵」くらいのものだし、戸障子を開ければ赤い「南天」の実が目に入ってくるだけなのだから……。たぶん父に死なれた後の弟との遺産争いの渦中にあったころの作だろうが、いかにも「淋しさ」が何度もこみあげてくるような情景である。信州だから、おそらくは雪もかなりあっただろう。その白い世界の南天の実は、ことのほか鮮やかで目にしみる。けれども心中鬱々としておだやかではない作者には、自然の美しさを愛でる余裕などはなかったろうから、鮮烈な赤い実もかえって落ち込む要因になったに違いない。つい弱音を吐いて「淋しさよ」と詠んでしまった。そうせざるを得なかった。でも、妙な言い方になるけれど、これほど吠えるように「淋しさよ」と言い放つたところは、やはり一茶ならではと言うべきか。文は人なり。そんな言い古された言葉が、ひとりでに浮かんできた。(清水哲男)


January 1712005

 金目鯛手に黒潮の迅さ言ふ

                           中村幸子

語は「金目鯛」としておく。手元の歳時記を調べてみたが、この魚を季語としたものはなかった。が、金目鯛の漁期は十二月から三月ころまでなので、作者が冬を想定して詠んでいるのは明らかだ。実景だろう。見事な金目鯛を一本釣りで釣り上げてきた漁師がそれを両手に抱えるようにして、嬉しさを隠しきれないようなのだ。周りの人たちも、凄いなあと感嘆している。でも、彼は自分の腕前をストレートに自慢するのは照れ臭いので、しきりに「黒潮の迅(はや)さ」を言っている。つまり、如何に困難な条件下にあったかを言うことで、間接的に腕自慢をしているわけだ。こんな情景に出くわしたことはないけれど、私には日焼けした漁師の表情までもが目に浮かぶ。というのも、おそらくは別の場面で何度も似たような経験があるからなのだろう。いわゆる職人肌の人はおおむね照れ屋であり、自慢も婉曲に表現する場合が多い。画家などの芸術家にもそういう種類の人は多く、周囲が讃めるとなおさらに婉曲的になる。自分の能力のことは放っておいて、たとえば紙や顔料の入手に苦労した話ばかりをしたりするのだ。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいし、もどかしいと言えばもどかしい。こうした処世美学は、西欧人にはあまり通じないかもしれないと思う。いや日本でも、職場などで声高に能力の誇示が叫ばれはじめたからには、やがてこうした謙譲の美徳につながる姿勢は理解されなくなりそうだ。『笹子』(2005)所収。(清水哲男)




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