January 202005
枯野ゆきつつ縺れる中学生
金子皆子
季語は「枯野」で冬。「縺(もつ)れる」が良い。下校の途中だろうか。何人かの中学生が、下世話に言えばじゃれあいながら帰ってゆく。よく見かける光景だし、誰にもそんなふうにふざけあった覚えがあるだろう。ちょっと肩で相手を小突いてみたり、からかってパッと走って逃げたりとか。これを町中でやられると、ひどく傍若無人の存在に感じられるが、場所が「枯野」となれば印象はだいぶ違ってくる。ただ茫々とひろがる冬の原では、行き交う人もめったにいない。そこを行く中学生たちだけが、シルエットのようなイメージで浮かんで動いている。つまり、枯野での彼らはほとんど影に等しいのだ。その影たちが、しきりに「縺れ」あっている。見ていると、彼らは単に物理的に縺れているのではなく、彼らの内面までもがお互いにねじれ、からまり、また離れてといった具合に縺れているようなのだ。中学生と言えば、半分は子供で半分は大人みたいなところがある。世間を知っているようで知らないとか、独立心があるようでいて依頼心も強かったりとか、中途半端な年頃だ。そしてこのことは彼ら自身もぼんやりと意識していて、日常的にいわば矛盾の塊としての自己を持て余している。その持て余しようを、掲句は「縺れる」という表現で一掴みにしているのだと思う。作者はその年頃だった自分を重ねあわせているはずだから、ただ微苦笑のうちに眺めているわけではあるまい。『花恋2』(2005)所収。(清水哲男)
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