庭の小さな木の紅梅のつぼみが少しずつ膨らんできました。明日はもう立春なんですね。




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February 0322005

 豆撒く声いくとせわれら家もたぬ

                           高島 茂

語は「豆撒(まめまき)」で冬。間借り生活なのだろう。私にも体験があるが、隣室と薄い壁や狭い廊下を隔てての暮らしは、とりわけて音を立てることに気を使う。ひそやかに暮らさねばならぬ。したがって、いくら節分の夜だからといっても、「鬼は外」など大声を出すわけにはいかないのだ。それでも用意した豆を子供らとともにそっと撒いて、小声でつぶやくように「福は内」と言う。年に一度の大声を、張り上げることもままならない「われら」は、家を持たずにもう「いくとせ」になるだろうか。豆撒きの日ならではの感慨である。しかし、最近では豆撒きの風習もすたれてきたようだ。撒いた後の掃除が面倒という主婦の談話を、何日か前の新聞で目にした。同じ新聞に、代わって流行の兆しにあるのが「恵方巻き」だとあった。元来が大阪の風習らしいが、節分の夜に家族で恵方(今年は西南西)を向き、太巻きの寿司を黙って一気に丸かじりにすると幸運が訪れるという。その昔に大阪の海苔屋がまず花街に仕掛けたといわれ、切らずに丸かじりにするのは男女の縁を「切らない」ようにとの縁かつぎからだそうだ。バレンタインデーにチョコレートを仕掛けた業界の企みと同じ流れだけれど、実質的な夕飯にもなるし、声を出さない内向性も現代人の好みに合いそうだから、ブレークしそうな気がする。そうなると、あいかわらず「鬼は外」とやるのは、テレビの中の「サザエさん」一家くらいになってしまうのかも。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0222005

 面体をつゝめど二月役者かな

                           前田普羅

月は生まれ月なので、今月の句はいろいろと気になる。この句もその一つで、長い間気にかかっていた。多くの歳時記に載っているのだけれど、意味不明のままにやり過ごしてきた。「二月役者」の役者は歌舞伎のそれだろうが、その役者が何をしている情景かがわからなかったからである。で、昨日たまたま河出文庫版の歳時記を読んでいたら、季語の「二月礼者(にがつれいじゃ)」の項にこうあった。「正月には芝居関係、料理屋関係の人々は年始の礼にまわれないので、二月一日に回礼する風習があった。この日を一日(ひとひ)正月、二月正月、迎え朔日、初朔日といった。正月のやり直しをする日と考えるのである」(平井照敏)。例句としては「出稽古の帰りの二月礼者かな」(五所平之助)など。読んだ途端に、あっ、これだなと思った。つまり「礼者」を「役者」に入れ替えたのだ。そういうことだったのかと、やっと合点がいった次第。積年の謎がするすると解けた。いくら人に正体を悟られないように「面体を」頬かむりしてつつんではいても、そこは役者のことだから、立居振る舞いを通じて自然に周囲にそれと知れてしまう。ああ名のある役者も大変だなあと思いつつ、しかし作者は微笑しているのだろう。大正初期の句だが、私などにはもっと昔の江戸の情景が浮かんでくる。なお、「二月」は春の季語。中西舗土編『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


February 0122005

 むささびに一夜雨風それから春

                           大石悦子

語は「むささび」で冬。リスの仲間だが、前後肢のあいだに飛膜があって、木から木へと滑空するのが特長だ。性温和、夜行性。冬季としたのは晩冬から初春にかけてが交尾期で、猫のような声で鳴くからだと考えられる。掲句は、もちろん想像の産物だ。想像句で難しいのは、いかに想像の世界を「さもありなん」と読者に思わせるかである。この句では「むささび」が出てくるのだが、これを別の動物、例えばキツネやタヌキなどでも、それなりに違った味の句にはなると思う。が、作者があえてあまりポビュラーとは言えない「むささび」を持ち出したのは、その生態の一部において、感覚的に我々人間の孤独感と通いあうものを思ってのことに違いない。むささびは、群れをなさない。単独か小さな家族単位で暮らしている。子供はせいぜいが一匹か二匹だという。住処である木の洞も、人の狭い住居に結びつく。だから「一夜雨風」ともなれば、私たちの冬ごもりと同じように、じいっと洞に身をひそめて悪天候が去るのを待つしかないだろう。そんな彼らの孤独の夜を、作者は風雨の冷たい冬の夜に想像して、いつしか自分が彼らの行動を断たれた孤独な世界と溶け合っている気持ちになった。だがしかし、こうした淋しくも厳しい冬の夜も、間もなく終わりに近づいてきている。もうすぐ春がやってくるのだ。「それから春」という表現には、孤独の氷解を期待する想いがいわば爆発寸前であることを告げているかのようだ。あさっては節分、四日が立春。『耶々』(2004)所収。(清水哲男)




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