2005N3句

March 0132005

 莨火を樹で消し母校よりはなる

                           寺山修司

季句としておくが、高校卒業の日を題材にした句だろう。すなわち「母校はなる」は卒業の意だ。しかし下五を「卒業す」としたのでは、あっけらかんとし過ぎてしまい、青春期の屈折した心情が伝わらない。たぶん作者は、高校生活をかなりうとましく感じていたのだろう。しかし、全部が全部うとましかったわけでもない。こんな学校なんて、とは思っていても、いざ卒業ということになると、去り難い気持ちもどこかに湧いてくる。式典が終了しクラスも解散、後は帰宅するだけというところで、校庭の片隅か裏門のようなところでか、クラスメートからひとり離れて「莨(たばこ)」に火をつけた。制服のカラーのホックを外し、第一ボタンを外して、不良を気取った例の格好で……。で、喫い終わった莨火を消すときに、地面で踏み消せばよいものを、わざわざ「樹」になすりつけたのである。この消し方に、母校への愛憎半ばした粘りつくような心情が込められているわけだ。さらっと「あばよ」とは別れにくい心情を、力技でねじ切るようにして樹に莨火をなすりつけている。このセンチメンタリズムは、たしかに青春のものである。今日は、全国の多くの高校で卒業式が行われる。現代の高校生は、どんなふうにして学校への複雑な思いを表現するのだろうか。いや、そもそも寺山修司のころのように、屈折した心情を抱いている生徒が多くいるのだろうか。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


March 0232005

 水門に少年の日の柳鮠

                           川端茅舎

語は「柳鮠(やなぎはえ)」で春。特定の魚の名ではなく、春の十センチ足らずの、柳の葉に似た淡水魚を指す。東京あたりで「はや」といえばウグイのことだし、琵琶湖で「はい」「白はえ」というのはオイカワ(追川)の雌のことだ。また高知ではカワムツの俗称など、魚の名前は地方によって違ったりするのでややこしい。と、これは物の本の受け売りだけれど、ならば私が少年期を過ごした山口で「はえ」とか「はや」とかと呼んでいた魚は、何だったのだろうか。たしかに、形は柳の葉に似ていたから「柳鮠」という総称に入れて間違いではないだろう。小さくてすばしこくて、彼らが川に登場してくると、川端のネコヤナギもふくらんできて、ああ春なんだなあと実感したものだった。昔は川が澄んでいたから、学校帰りに飽かず覗き込んでは時を忘れた。なかでも早春の川では、メダカが泳ぎ川エビが飛び回り、動くものが増えてくるので楽しくも美しい。五年生のときだったか、その日にもらった何かの賞状をそこらへんに置いて夢中で除いていたら、あっという間に春風にさらわれて水に流されてしまったのも、懐かしい思い出だ。掲句の川は「水門」があるくらいだから、川幅は相当に広いのだろう。通りかかって気まぐれに、少年時代には無かった水門のあたりを覗いてみると、そこにはしかしちゃあんと「少年の日」そのままに「柳鮠」が元気に泳いでいた。懐かしくそして嬉しかったと、いかにも早春らしい抒情を湛えた句だ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0332005

 地の涯に倖せありと来しが雪

                           細谷源二

者は1941年(昭和十六年)の新興俳句弾圧事件で逮捕、二年間投獄され、敗戦の直前に東京からの開拓移民として一家をあげて北海道に渡った。北海道史をひもといてみる。「来れ、沃土北海道へ、戦災を転じて産業の再編成」というスローガンの下、拓北農民隊と呼ばれた応募者は東京都1719戸、大阪府583戸、神奈川県343戸、京都府257戸という具合に大都市圏からの移住者が多かった。しかし彼らに与えられたのは、沃土どころか大部分が泥炭地や火山灰地であり、ましてや農業経験もない人たちにはあまりにも過酷な現実であった。掲句には過酷とも苦しみとも何も書かれてはいないけれど、最後に置かれた「雪」の一文字で全てが語られている。同じように「幸せ」を求めたカール・ブッセの「山のあなた」の主人公は「涙さしぐみ、かへりきぬ」(上田敏訳)と戻ってくることができたが、開拓移民にはそれもならない。見渡す限りの大地を覆い尽くし、なお降りしきる雪のなかに、胸ふくらませた「倖せ(しあわせ)」などは完全に飲み尽くされてしまった。全てを失った者の茫然自失とは、こういうことを言うのだろう。今年は敗戦後60年にあたる。もはや北海道でも語られることの少ないであろう歴史の一齣だ。今日も北海道は雪のなか、雪のなかの雛祭り……。『砂金帯』(1949)所収。(清水哲男)


March 0432005

 世界の子らになの花いろの炒りたまご

                           呉羽陽子

語は「なのはな(菜の花)」で春。かつてサルトルは「飢えた子に文学は有効か」という問いを投げかけた。むろん、文学には答えられない質問だ。太古の昔から、子供は状況の被害者となる確率が高い。現代でも飢えはもとより、多くの子供たちが戦争による死、大人による虐殺、人身売買などの危険にさらされている。そんな子供たちが一人残らず、平和な環境で「なの花いろの炒りたまご」を食べられる日がくるだろうか。来ないかもしれない。いや、絶対に来てほしいという願いの込められた美しい句だ。こうした句は、案外と難しい。理屈に走ればヒューマニスト気取りと受け取られかねないし、感情に溺れればヒステリックな夢想家のように思われがちだからだ。実際、この世は子供や老人、障害者などの弱者に対して、多く偽善的である。断言できる。いつだって建前論を床の間に飾って、具体的には問題を遠くへ遠くへと排除しやり過ごしてしまうのだ。だからこのときに、有季定型俳句であろうとも、弱者への建前的ではない祈りや願望を表現することは、この世の「暗黙の秩序」にどこかで実質的には逆らうことになる。この句も、もちろんそうした構造を持っているだろう。だが、そのあたりがあからさまに露出して見えてこないのは、やはり「なの花いろ」の圧倒的な美しさを、読者が強く感じるからに違いない。その意味で、有季を巧みに取り入れた作品だと言える。それこそ良く出来た「炒りたまご」のようにふんわりと柔らかく、しかし有無を言わせず私たちに訴えてくるものがある。鴎座合同句集『翔』(2004)所載。(清水哲男)


March 0532005

 春服の部下を呼び付け叱らねば

                           久松洋一

語は「春服(しゅんぷく)」。正月の「晴れ着」ではない。春の明るく軽やかな服装のこと。男女の着る和装、洋装いずれをも指すが、どちらかといえば女性の洋装が詠まれる場合が多い。掲句も、そうだろう。とくに若い女性のファッションは、季節に敏感だ。いや、季節を先取りすると言ったほうが適当か。この女性も、まだ春というには寒い日に、いかにも春らしい服装で出勤してきた。それだけでオフィスは華やぐ感じがするものだが、彼女自身もいつもよりは気分が華やいでいるようで上機嫌だ。が、彼女が仕事上の失敗をしたことを、上司である作者は気がついている。そのままにしておくと今後とも業務に差し支えるので、どうしても「叱らねば」ならない。叱ったら、きっと彼女はションボリしてしまうだろう。せっかくの「春服」の華やぎも台無しだ。できることなら叱りたくはないのだけれど、立場上からしてやむを得ない。でも、いつ「呼び付け」ようか。もう少し後でもいいかな……。気が重い。タイミングを計りながら、ちらちらと彼女の様子をうかがっている中間管理職の苦さがよく伝わってくる句だ。私は作者のような立場になったことはないが、上司には「部下」にはわからない上司としての辛さがあるのだ。上司もつらいよ。「抒情文芸」(2005年春号)所載。(清水哲男)


March 0632005

 黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ

                           林田紀音夫

季句。人は死ぬ、誰でもいつかは。が、私たちの多くは普段そのことを強く意識して暮らしているわけではない。たまに何かのきっかけがあって、ふっと意識させられることだ。意識させられて、この免れ難い宿命に悲観したり暗澹としたり、あるいは逆に死の万人平等性に安堵したりするなど、そのときその人にとっての反応はさまざまだ。作者のきっかけは、雨の道でだった。読者諸兄姉は、どんな情景を思い浮かべるでしょうか。キーは「黄の青の赤の雨傘」。これを、他に黒もあれば茶もあるというふうに色とりどりの傘と読むか、あるいはこの三色の傘に限定して読むかによって、解釈は異なってくる。私は後者と読んで、傘をさしているのは小学生くらいの女の子だと想像した。色とりどりだと、老若男女すべてが含まれてしまい、ポエジーに鋭さが欠けてしまう。おおかたは歳の順番さ、みたいな答えを出されてもつまらない。雨の道で前を行く三人の女の子、まだこれからたっぷりの時間が残されている幼い三つの命。傘の色が違うように、これからそれぞれの人生も違っていくわけだが、しかし終局的には死の一点において行きつく先は同じである。ただ、お互いの死が早いか遅いかの違いは確実にある。その違いに着目したとき、作者は言い知れぬ人間存在の寂しさを感じたのだ。そんな作者の思いなどもちろん知るはずもなく、元気に屈託なく歩いてゆくちっちゃな三人の女の子……。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


March 0732005

 春や春まづはぶつかけうどんかな

                           有馬朗人

年の冬は長い。「春や春」には、まだとても遠そうな日がつづいている。誰かの短歌に「待っていればいずれは来るものを、人は何故わざわざ春を探しにいったりするのだろうか」、そんな趣旨のものがあった。この句をここに載せる私の気持ちも、やはり春を待望しているからなのだ。ああ待ち遠しい、寒いのはもうご免だ。掲句では、すでに春爛漫。外出先ですっかり嬉しくなって、なにはともあれ「ぶつかけうどん」で腹ごしらえをすることにした。うどんにもいろいろな種類があるけれど、この場合は「ぶつかけ」という言葉の勢いが気に入って注文したのだろう。「ぶつかけうどん」の味が好きというよりも、言葉が気分にマッチしての選択である。大袈裟に言えば時の勢い、別の何かを食べたくて店に入ったつもりが、メニューに並んだ料理名を見ているうちにふっと気が変わることはよくある。作者ははじめから「ぶつかけ」に決めていたのかもしれないが、いずれにしても言葉に惹かれたのには違いあるまい。食べるときにタレをぶっかけるとはいっても、それは言葉の綾というもので、実際には飛び散らないように静かにかける。お上品にも、いちいち別皿のタレにうどんをからめて食べるのは面倒だ。そこで、「えいっ」とばかりにぶっかける気持ちでかけるから「ぶつかけうどん」。東京辺りでも、まだまだ「ぶつかけ」ならぬ単なる「かけうどん」の似合う日がつづきそうだ(笑)。『不稀』(2005)所収。(清水哲男)


March 0832005

 夜のぶらんこ都がひとつ足の下

                           土肥あき子

語は「ぶらんこ」で春、「鞦韆(しゅうせん)」に分類。平安期から長い間大人の遊具だったのが、江戸期あたりからは完全に子供たちに乗っ取られてしまった。春を待ちかねた子供たちが遊んだことから、早春の季語としたのだろう。一茶に「ぶらんこや桜の花を待ちながら」がある。掲句は「夜のぶらんこ」だから、大人としての作者が漕いでいる。小高い丘の上の公園が想像される。気まぐれに乗ったのだったが、ゆったりと漕いでいるうちに、だんだんとその気になってきて、思い切りスゥイングすることになった。ぶらんこには、人のそんな本気を誘い出すようなところがある。「足」を高く上げて漕いでいると、遠くに見える街の灯が束の間「足」に隠れてしまう。その様子を「都がひとつ足の下」と言い止めたところが、スケールが大きくて面白い。女性がひとり夜のぶらんこに乗るといえば、なんとなく曰くありげにも受け取られがちだが、そのような感傷のかけらがないのもユニークだ。だから読者もまた、春の宵の暖かさのなかにのびのびと解放された気持ちになれるのである。ぶらんこを漕ぐといえば、思い出すのはアニメ『アルプスの少女ハイジ』のオープニングだ。彼女は、異様に長いぶらんこに乗っていた。で、あるヒマ人が計算してみたところ、ハイジは上空100メートルくらいを時速68キロで振り子振動をしていたことになるのだそうだ。シートベルトもせずによくも平気な顔をしていられたものだと驚嘆させられるが、それでも彼女には遠い「都」はちらりとも見えなかった。それほどアルプスは雄大なのである(笑)。「読売新聞」(2005年2月12日付夕刊)所載。(清水哲男)


March 0932005

 夢のまた夢に覺めけり櫻鯛

                           石 寒太

語は「櫻(桜)鯛」で春。真鯛のこと。産卵期を迎えて桜色の婚姻色に染まることと、内海や沿岸に桜の咲くころに集まってくることからの命名。ただし、おいしくなる旬は八十八夜を過ぎてからだそうだ。掲句は、作者若き日の佳作。「夢のまた夢」とは見果てぬ夢、所詮かなわぬ夢のことだから、目覚めたときにはとても悲しいものがあるだろう。「なあんだ夢か」ではすまされない絶望に近い哀しみだ。もしかするとこの鯛は既に捕われて、あるいは命を失って、作者の前に横たわっているのかもしれない。そう読めばますます悲哀感が募るけれど、しかし鯛の見た夢が見果てぬ夢であると詠むことにより、作者は美しい鯛ならではの気品と貫禄をそっと添えてやっていることがわかる。作者当時の作風について、筑紫磐井は「この作者の創る世界には、どこを探しても否定がないことに気づくだろう。否定たるべき死さえも、それは美しい生のいとなみの終焉のいろどりをそえるにすぎない」と書いている。鋭い視点だ。このまま、掲句にも当てはまる。すなわち、作者は桜鯛の悲しみを言いながら、そんな桜鯛を賞揚しているというわけだ。そして、こうした物事のつかみ方はひとり石寒太に限らず、多くの俳人に共通しているような気がする。乱暴な言い方をしておけば、同じ題材を扱っても、近代以降の詩人はこのようには書かない。いや、書けない。かつて茨木のり子は房総の禁漁区に鯛を見に行った詩で、禁漁区を設けた人間の愛が、実は鯛に対する「奴隷への罠たりうる」と書いた。多く詩人の目は、暗いほうへと向けられてきた。現代俳句文庫『石寒太句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


March 1032005

 戦争展煤け福助畏まり

                           森 洋

季句。60年前の今日の東京大空襲、午前0時8分の深川空襲からそれははじまった。米軍の下町焦土作戦はこうだった。まず先発隊が焼夷弾を落して、大きい炎の四角形を描く。後続隊はその四角形のなかを、まるでジグソー・パズルでも埋めていくように、少しの隙間もできないように炎で満たしたのである。2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB-29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。何度も書いたことだが,七歳の私はその四角形の外側(中野区)で真っ赤に灼けた空を眺めていた。空襲の夜空は何度も見たけれど、あの夜の異常な色彩はとくによく覚えている。地獄絵で見るような色だった。掲句がこの空襲と関係があるのかどうかはわからないが、そんな戦禍のなかで焼け残り煤けた福助が展示してあるのだろう。酷い目に遭いながらもなお膝も崩さず「畏(かしこ)ま」っている福助人形は、その謎めいた微笑の下で,人間の愚かさをあざ笑っているようにも思えてくる。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


March 1132005

 あらうことか朝寝の妻を踏んづけぬ

                           脇屋義之

語は「朝寝」で春。春眠暁を覚えず……。よほど気が急いていたのか、何かに気を取られていたのだろう。「あっ、しまった」と思ったときは、もう遅かった。「あらうことか」、寝ている妻を思い切り「踏んづけ」てしまったというのである。一方の熟睡していた奥さんにしてみれば,強烈な痛みを感じたのは当然として、一瞬我が身に何が起きたのかがわからなかったに違いない。夫に踏まれるなどは予想だにしていないことだから、束の間混乱した頭で何事だと思ったのだろうか。この句は「踏んづけた」そのことよりも、踏んづけた後の両者の混乱ぶりが想像されて,当人たちには笑い事ではないのだけれど,思わずも笑ってしまった。こうして句にするくらいだから、もちろん奥さんに大事はなかったのだろう。私は妻を踏んづけたことはないけれど,よちよち歩きの赤ん坊に肘鉄を喰らわせたことくらいはある。誰にだって、物の弾みでの「あらうことか」体験の一つや二つはありそうだ。この句を読んで思い出したのは、川崎洋の「にょうぼうが いった」という短い詩だ。「あさ/にょうぼうが ねどこで/うわごとにしては はっきり/きちがい/といった/それだけ/ひとこと//めざめる すんぜん/だから こそ/まっすぐ/あ おれのことだ/とわかった//にょうぼうは/きがふれてはいない」。「あらうことか」、こちらは早朝に踏んづけられた側の例である。『祝福』(2005・私家版)所収。(清水哲男)


March 1232005

 老人の立つまでの間の虻の声

                           清水径子

語は「虻(あぶ)」で春。歳を取ってくると,どうしても動作が緩慢になってくる。口悪く言えば、ノロ臭くなる。作者の前で,いましもひとりの「老人」がのろのろと立ち上がっているところだ。「よっこらしょ」という感じが、なんとも大儀そうだ。と、そこにどこからともなく「虻の声」がしてきた。作者はいわば本能的に警戒する構えになっているが、老人のほうは立ち上がるのが精一杯という様子で,虻の接近を知ってか知らずか,全く警戒する風ではない。ただそれだけのことながら、この句には老人の身体のありようというものが見事に描かれている。といって,哀れだとかお可哀想になどという安手な感傷に落ちていないところが流石である。年寄りの緩慢は、敏捷な時代の果てにあるものだ。だから、身体のどこかの機能には敏捷な動きが残っている。すべての機能が平等に衰えてくるというものではない。したがって、このときにもしも老人に虻が刺そうとして近づいたとしたら,彼は長年の経験から,ノロ臭いどころか手練の早業で叩き落としてしまうかもしれない。あえて言えば,老人の身体にはそうした不可解さがある。若い者にはときに不気味にすら思えたりするのだが,そうしたことまでをも含んだ「立つまでの間」なのだ。他ならぬ私の動作も,だんだんノロ臭くなってきた。だから余計に心に沁みるのかもしれない。また掲句からは,俳句の素材はどこにでもあることを、あらためて思い知らされたのでもあった。『清水径子全句集』(2005)所収。(清水哲男)


March 1332005

 街角の風を売るなり風車

                           三好達治

語は「風車(かざぐるま)」で春。中国から渡ってきた玩具で、中世のころから知られていた。春のはじめに多く作られたことから、春の季語とされたようだ。街角の風車売り。それだけで絵になるし、郷愁にも誘われる。その様子を風車を売っていると言わずに、「風を売る」と言い止めた。この句を読んで、「なるほど、上手いことを言ったものだ」と思う人もいるだろうし、逆に「きざっぽいなあ」とひっかかる人もいそうだ。はじめて掲句を知ったときの私は前者であったが,今では後者に傾いている。むろん、作者の洒落っ気はわかる。粋な味付けだ。だが最近の私は,こうした一種の機知をうとましく思いはじめた。四角四面に「風を売る」なんて嘘じゃないかと言うつもりは毛頭ないのだけれど、あまりにも作者の「どうだ、上手いもんだろ」と言わんばかりのポーズが鼻についてしまうからである。このあたり、俳句は短いがゆえに、鼻につくかどうかも紙一重だ。ま、小唄だと思って読めば、そう目くじらを立てることもあるまいが、このような機知の用いようは、ときに大きく物事の本質をはぐらかすほうに働く恐れは大だとは言っておきたい。もっとも、それが狙いさと言われれば,それまでだけれど……。それにつけても、ああ街角のセルロイドの風車。買いたいときには買えなかったし,買おうと思えば買えるようになったときには欲しい気持ちが失せていた。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 1432005

 鎌倉を驚かしたる余寒あり

                           高浜虚子

語は「余寒(よかん)」で春。本格的な春も間近というときになって、突然寒波が襲ってきた。それも選りに選って温暖な湘南の地である「鎌倉」をねらったかのように、である。居住している作者自身が驚かされたのはむろんだが、それを鎌倉全体が驚かされたと大きくスケールを広げたところに、この句の新鮮な衝撃力がある。他の鎌倉の住人も驚いたろうが,鎌倉の土地そのものも、そしてさらには鎌倉の長い歴史までもが驚いたと読めるところが面白い。この句について、山本健吉は「淡々と叙して欲のない句」と言っている。「鎌倉の位置、小じんまりとまとまった大きさ,その三方に山を背負った地形,住民の生態などまで、すべてこの句に奉仕する」(『現代俳句』・角川新書)とも……。私はこれに加えて、というよりも、いちばん奉仕しているのは鎌倉という地名が内包している「歴史」なのだと思う。鎌倉幕府の昔より歴史的に濾過されてきたイメージが、読者にぴんと来るからこそ、句は生きてくるのだ。これを鎌倉の代わりに、たとえばすぐ近くの「東京」としたのでは、地形が漠としすぎることもあるけれど、何と言っても歴史が浅すぎて、鎌倉ほどに強いイメージが喚起されることはないだろう。すなわち掲句は、一見「淡々と叙して」いるようでいて、実は地名の及ぼすあれこれの効果をきちんと(瞬時にせよ)計った上で詠めたのだろうと思った。「無欲」という言い方は、ちょっと違うのではなかろうか。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)


March 1532005

 蟻穴を出づる尻のみな傷み

                           皆吉爽雨

語は「蟻穴を出づ」で春。「地虫穴を出づ」に分類。「尻」は「いしき」と読ませている。衣服の尻当てのことを、昔は「いしき当て」と言った。春,暖かくなってきて,「蟻」たちが巣穴から出てきた。次々に出てくる彼らの「尻」は、しかし、固い表面の土にこすれて「みな傷(いた)」んでいると言うのだ。無惨というほどではないにしても、新しい生活に入るときには、みなこのように傷を負うのだという示唆は鋭い。そしてまたこの句には、生きとし生けるものの根源的な哀しみのようなものが滲んでいる。一見写生句のようにも思えるが,とうていこれは写生という範疇の叙述ではあり得ない。写生を突き詰めていって,その果てに忽然と生まれた想像の世界とでも言うべきだろうか。爽雨の晩年に詠まれた句で,感じたのは,ここには高齢者でなくては発想できない詩心があるということだった。老人にとっての巡り来る春とは,若年の頃のようにただ楽天的に謳歌できる性質のものではないからだ。春に新生の息吹きを感じるがゆえに,他方では滅びへの感覚も研ぎすまされてくる。それが作者にとっての「尻の傷」というわけだ。たとえ傷を負おうとも,若さはそれを苦もなく乗り越えられる。が、老人は負ったままで、これからも暮らさねばならぬことを知っている。その意識が,蟻たちに向けられたとき、はじめてみずからの不安定な心根をこのように詠み得たということになる。自愛と自虐,慈愛と残酷さが混在したまなざしだ。掲句は作者の孫の皆吉司『どんぐり舎の怪人・西荻俳句手帖』(2005・ふらんす堂)で知った。肉親ならではの爽雨像に、格別の関心をもって読んだ。好著である。句は『声遠』(1982)所収。(清水哲男)


March 1632005

 青き踏む生まなくなつた女たち

                           早乙女わらび

語は「青き踏む(踏青)」で春。古い中国の行事から来た言葉だが,いわゆる野遊び、ピクニックなどを言う。ちょっとした春の散策やそぞろ歩きも含めて,幅広く使われているようだ。この場合は,比較的若い女性ばかり何人かでのハイキングだろうか。明るい日差しを浴びて,にぎやかに春の野を楽しんでいる女性たち。作者はその群像を傍見しつつ、ふっと最近の女性の多くが子供を「生まなくなった」ことを意識させられた。意識させられたからといって、それがどうしたというわけではないが、彼女らの屈託のなさや身軽さは、そのあたりから発しているような気がしないでもない。いずれにしても、戦後半世紀以上を経てみると,女性のありようも変われば変わったものだという感慨がわいてくる。で、ここからは私のヤマカンでしかないが、ひょっとすると句の「青き踏む」は、平塚らいてうの興した「青踏社」に掛けてあるのかもしれないと思った。「青踏社」の「踏」は正確な表記では「鞜」であるが、どちらも語源的には「踏む」の意を持つからか,両者とも普通に使われている。そこでこの句に、らいてうの有名な宣言「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ」を響かせると,いっそう味わい深くなる。彼女の言った意味で,果たして現代女性はまったき太陽を取り戻したと言えるのだろうか、それとも……。作品集「雁坂」(2004年12月・第11輯)所載。(清水哲男)


March 1732005

 青ぬたやかためにたきし昼の飯

                           片山鶏頭子

語は「青ぬた(青饅)」で春。ネギ、ワケギ、ホウレンソウなどの春先の野菜を茹でて、イカ、マグロなどと酢みそで和えたもの。なるほど、青ぬたは「ぬたぬたと(笑)」やわらかいので、ご飯は少し「かため」に炊くほうがよいだろう。私のような飲み助には酒の肴でおなじみだが、食膳の主菜としても美味しそうだ。熱々のかためのご飯に、つめたい青ぬた。それも昼食なのだから、室内は明るくて青ぬたの色彩も美しく,春の気分満点だ。食べ物の句は,このように美味しそうに作るのがなかなか難しい。ところで「ぬた」は何故「ぬた」と言うのか。手元の百科事典を見たら,「沼田(ぬた)のようにどろどろしているから」という説が紹介されていた。でも、「どろどろ」と形容するのはニュアンスが違うな。やはり「ぬたぬた」としか言いようがないような気がする。英語での似たような例を、アーサー・ビナードが書いていた。ある絵本を日本語に翻訳していて,"goo"という単語で行き詰まった。絵本ではテーブルの下に落ちている灰色の塊を指していて、英米人なら幼児期から誰でも知っている単語らしい。「ドロドロの液体か,グシャグシヤの固体か、その中間の半固体状態で粘り気のあるもの、ともかくベタベタあるいはヌメッとした物体を"goo"と呼ぶ」。だが、日本語には該当する適当な言葉がない。仕方がないので「だれかが おとした もの」とやったそうだが、これは絵本のその場面限定の翻訳であって,"goo"の本義にはほど遠いわけだ。これを読んだときに我らが「ぬた」も"goo"じゃないかと思ったけれど,どうなのだろうか。今度会ったら,聞いてみよう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 1832005

 小腹とは常に空くものももちどり

                           中原道夫

語は「ももちどり(百千鳥)」で春。春の朝,さまざまな鳥が群れてさえずっている姿を指す。この様子の鳴き声だけに重点を置いた季語が「囀(さえずり)」で、当歳時記では「百千鳥」を「囀」の項に分類しておく。「小腹(こばら)」は、中国語では妊婦の腹など具体的な形状を指すようだが、日本語では抽象的に使う。ちょっと空腹を覚えることを「小腹が空く」、少々むかつくことを「小腹が立つ」など。ただ、現在ではどうだろうか。「小腹が空く」は聞くが,「小腹が立つ」とはすっかり耳にしなくなった。したがってか、作者は「小腹とは常に空くもの」と断定している。しかしこれは一種の決めつけ、ドグマである。なぜなら、「常に」そうなのかという素朴な疑問に耳をかそうとしない物言いだからだ。だから作者の腕の見せどころは、このドグマを如何に普遍化するか,誰をもなるほどと納得させるるかにかかってくる。そこで、下五にもってきたのが「ももちどり」。上手いっと、私は唸りましたね。この下五で「小腹」は小鳥の腹の形状へと可視的に転化され,しかも小鳥が早起きしてさえずるのは空腹のためだから、生態的にもぴしゃりと合っている。先のドグマは、見事に「ももちどり」の愛らしい姿に吸引されてしまったというわけだ。普通の写生句は具体を言葉にするのだが、掲句は逆に言葉から出て具体を呼び込んでいる。ただし、この作り方は下手をすると、ついに具体に及ばない危険も伴うので,あまり人に薦める気にはなれないけれど。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


March 1932005

 春愁やとろとろ茹でる石つころ

                           八木忠栄

語は「春愁」。明るく浮き立つ気分になる春だが(だからこそ)、ふっと謂れなき愁意を覚えることがある。はっきりとした憂鬱ではなく,あてどない物思いという感じだ。何でしょうかね,この哀感とは。掲句は、こうした質問に対する一つの解答のようにも読めるが,しかしそうではあるまい。やはり作者も「何でしょうかね」と首を傾げているのではなかろうか。つまり、「春愁」とは「石つころ」を茹でるようなものだと言っているのではないだろう。一見そのようにも思えるのは「とろとろ」という修辞のせいであって、しかしこの場合に「春愁」と「石つころ」とは何の関係もないのである。「とろとろ」をよく読むと,石っころを茹でる状態を言っていると同時に,実は「春愁」の状態にも掛けられている。本来無関係な両者が,この「とろとろ」で結びつけられているのだ。ここらへんが俳句表現の妙味だろうが、ここに着目することによって、作者の「何でしょうかね」がそれこそ「とろとろ」と浮き上がってくる仕掛けだ。作者はあるとき,不意に哀愁にとらわれた。が、それは決して暗いばかりのそれではない。どこかに、むしろほのかな甘美感も漂っている。その「とろとろ」した思いのなかで,「とろとろ」と石っころを茹でている。でも、異物を茹でているという意識は全くない。当然のように,ごく自然なこととして茹でている。何故,このようなことが自分に起きているのか。そんな疑問すら抱かせない「春愁」とは、いったい「何でしょうかね」。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


March 2032005

 かたまり黙す農民の馬鹿田螺の馬鹿

                           安藤しげる

語は「田螺(たにし)」で春。田圃の隅っこのほうで、いくつもの田螺がのろのろと這っている。子供時代,そんな情景は何度も目にしたが,ノロ臭いなと思うくらいで格別興味を持ったことはない。食べられることも知らなかった。そんな田螺同様に,「農民」もまた「かたまり黙」していると言うのだ。この句からだけではわからないが、このとき(昭和三十年代前半)二十代の作者は鉄工として働いていた。「火蛾・鉄工生きる荒さを一つの灯に」。職場での組合活動にも熱心だったようだ。したがって「かたまり黙す農民」とは一見類型的な農民像のようだけれど、そうではないのである。双方同じ労働者ながら、組織労働者としての作者からすると、現実の諸矛盾にいっかな声をあげようとしない農民のありようには、とても歯痒いものがあったのだろう。その意識のなかでの「馬鹿」である。すなわち、労働者としての親愛の情と歯痒い思いとがないまぜになった「馬鹿」。まるで「田螺」みたいじゃないかと言いつつも,決して軽蔑したりコケにするための「馬鹿」ではないのだ。どこか呑気な田螺の姿を持ち込んだことで,作者の意図した「馬鹿」の中味とニュアンスが誤解なく伝わってくる。戦後の一時期の気分を代表した佳句と言ってよいだろう。戦後も六十年.労働者の姿も大きく変貌した。しかるがゆえにか、労働の現場から発する俳句も少なくなった。多くの人が,まるで働いていないかのような句ばかりを好んで詠んでいる。『胸に東風』(2005)所収。(清水哲男)


March 2132005

 風の日の記憶ばかりの花辛夷

                           千代田葛彦

語は「辛夷(こぶし)」で春。近所の辛夷が咲きはじめた。まだ三分咲きといったところだろうか。が、辛夷の開花スピードは速いので,あと三、四日もすれば満開になるにちがいない。辛夷は背の高い木だから、たいていは花も仰ぎ見ることになる。でも、我が家の居間はマンションの一階だけれど、真っすぐ水平に目をやれば見ることができる。というのも、居間から出られる猫の額ほどの庭の塀の向こう側が小さな崖状になっていて、その下の小公園に植えられているからだ。木の高さは、十メートル程度はあるだろう。その高いところがちょうど正面に見えるわけで、咲きはじめるとイヤでも目に入ってくる。花辛夷見物特等席なり。で、もうかれこれ四半世紀は、毎春この花を正面に見てきたことになり、たしかに句にあるように「風」の記憶とともにある。早春の東京は風の強い日が多く,ときに花辛夷は無数の白いハンケチがちぎれんばかりに振られている様相を呈する。子供のころからこの季節の風は体感的に寒いので嫌いだったが,コンタクトをするようになってからは実害も伴うので,ますます嫌いになった。そんなわけで外出の折りには、いつの頃からか、あらかじめこの花辛夷の揺れ具合を確かめるのが癖になり、揺れていないと機嫌良く出かけられるということに……。ま、風速計代わりですね。掲句の実景は、ちょうどいまごろの様子だろうか。あるいはまだ、まったく咲いていないのかもしれない。また風の季節がやってくるなと,作者は来し方の早春のあれこれを漠と思い出している。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 2232005

 サヨナラがバンザイに似る花菜道

                           正木ゆう子

語は「花菜(はなな)」で春。「菜の花」のこと。ふつう「サヨナラ」の仕草は片手をあげ、「バンザイ」は両手で表現する。だから「似る」わけはないのだが、そうでもないときがある。たとえば、子供たちの卒業式からの帰り道だ。一面に「花菜」が咲き乱れる道を,いつものように連れ立って帰ってゆく。が、今日は特別の日だ。別れ道で「じゃあね」といつものように片手をあげて別れるのだが、しばらくすると遠くのほうから「サヨーナラーッ」と声がする。見ればいま別れた友だちが、手を振っている。で、こちらも振りかえす。遠ざかりながら何度も手を振りあううちに,最後は双方とも両手をあげて大きく振るようになる。傍目からすれば「バンザイ」の仕草に似てしまうわけだが、当人たちにはあくまでも「サヨナラ」なのだ。いや、たとえ最後まで片手を降っていたとしても,花菜道の明るさが「バンザイ」を想起させるということでもよさそうである。微笑してそんな情景を見ている作者には、しかし「サヨナラ」が「バンザイ」に似ようとも,彼らのこれからの長い人生のことなどがちらと思われて、すっと甘酸っぱいようなほろ苦いようなものが、胸をかすめたことだろう。この「バンザイ」に似た「サヨナラ」で,親しく手を振りあった同士が、もう二度と会わないことだってあるとするならば……。『悠 HARUKA』(1994)所収。(清水哲男)


March 2332005

 春の木になりて縄など垂らすかな

                           鳴戸奈菜

い句だ。いや、逆に可憐な句と言ってもよい。一読,鮮やかな女性「性」を感じた。が、もしかすると作者はそのことに無意識であるかもしれない。それほどに、句柄がすっとしているからだ。でも、男が読めば、すっとしているほどに強い女性「性」を感じるのである。作者の名前が伏せられていたとしても,男の句ではないことがすっと伝わってくる。同じようなことを詠むとしても、男だったら「春の木を見れば縄など垂れている」程度になるだろうか。夏や秋の木ではなく、ましてや冬のそれでもなく,これから花開こうかという「春の木になる」。明るくも生臭い春の木は、しかしみずから動くことはかなわない。あくまでもじいっと立ったままなのであり、徹底して受け身である。その身悶えせんばかりの悩ましさから,少しでも解放されるために、せめて出来ることと言えば「縄など垂らす」ことくらいだろう。木の芽時の縄だから、もとより通りかかる誰かの自殺への誘惑装置として垂らすのだ。そこが「怖い」と感じさせる所以だが,しかし女性の根元的な「性」、当人も無意識であるかもしれない「性」のありようには、常に「縄など垂らす」ようなところがあるのだと思う。突き詰めた物言いをしておけば、死への誘惑がひそんでいる。したがって、その意味で理解するとなると、何の外連み(けれんみ)も無くすっと提出している作者の心情は,むしろ可憐の側にあるとも言えるのである。『鳴戸奈菜句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


March 2432005

 夜の明ぬ松伐倒すさくらかな

                           陽 和

戸期の句.朝飯前の一仕事だ。「夜の明(あけ)ぬ」とはあるが、まだ完全には明けていない状態を言ったのだろう。しらじらと明け初めてきた山道を木樵(きこり)がやってきて、そこにある「松」の木を伐り倒した。この場合の松の木は、相当な大木であるほうが句景にふさわしい。木樵と大木とが、いわば格闘する感じである。そんな格闘の末に,どうと地響きをたてて松が倒れる。と、それまではほとんど視界になかった満開の「さくら」が、ぱあっと眼前に現われたというわけだ。まだ、山は薄暗い。その薄明のなかに真っ白に浮き出た桜花の美しさときたら,どうだろう。しばし木樵は、陶然として眺めたにちがいない。たまたま伐り倒した松の向こうに、たまたま桜の木があったにすぎないが、黒っぽい松の木だけに、この「たまたま」は天の配剤のように写る。この句の手柄は,まず人の姿を出さずにドラマを創出したところだ。そしてさらには、情景の鮮明な映像化を果たしたこともさることながら、句に映像だけでなく,山の匂いまでをもにおわせている点である。伐り倒した松の木が発散する濃密な匂いがあたりに立ちこめ,その向こうには無臭の桜花が爛漫と展開している。松と桜の景の取り合わせが匂いのそれにまで及んでいるから,読者はまことに清々しい思いで句を反芻することができるのである。いいなあ、山の朝は……。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


March 2532005

 鶯餅かこみて雨にかこまるる

                           鳥居真里子

語は「鶯餅(鴬餅・うぐいすもち)」で春。「1846年(弘化3)になった山東京山の随筆『蜘蛛(くも)の糸巻』に「通人の称美したるものなるに、今は駄菓子や物となりて」と記され、幕末にはこの菓子が桜餅などとともに、春先の甘味としてすでに大衆化していたことがわかる」(「スーパー・ニッポニカ」2002)。その色といい形といい、なるほどいかにも通人の好みそうな餅菓子だ。大衆化したとはいっても、そんなに頻繁に食べられているわけではない。だから掲句のように,たまに食べるとなると,家族みんなで「かこむ」ことになる。束の間の団欒の場ができる。そして、この空間のみに意識をとどめる限りでは、雰囲気はあくまでも明るくてハッピーだ。だが作者は,この情景を望遠レンズで捉えたかのように,いきなり後半でカメラをぐいと引いてみせている。と、この親密な様子の家族をかこんでいたのは、実は暗くて冷たい雨だった。かこんでいる者たちが、さらに大きなものにかこまれているという構図。この構図が,さながらポジをネガに反転させるように働いていて効果的だ。でも、この句の味はそれだけにとどまらないところにあるだろう。この構図をしばらく眺めているうちに,読者の目が戸外の雨を離れて,再び団欒のクローズアップへと誘われる点である。その目は一度暗くて冷たい雨を見てしまっているので,再度の団欒の場は余計に親密度の濃い空間に見え,かこまれた鴬餅の風情もいちだんと明るくハッピーに写るのである。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


March 2632005

 紫雲英草まるく敷きつめ子が二人

                           田中裕明

語は「紫雲英草(げんげそう)」で春、「紫雲英」の項に分類。「蓮華草(れんげそう)」とも。かつては田圃で広く栽培され,肥料として春の田に鋤き込まれていた。いちめんに紫雲英咲く田圃の風景は,絵のように美しかった。私にも覚えがあるが,花を摘んでは首飾りめいたものなどを作って遊んだものだ。句の「子」は、「二人」とも女の子だろう。二人は,とある農家の庭先で,ままごと遊びでもしているのか。カーペットに模したつもりだろう、たくさんの紫雲英を取ってきてていねいに「まるく敷きつめ」、その上にちょこんと坐って遊んでいるのだ。それだけの光景ではあるけれど,この句を味わうためには,尻の下に敷いた紫雲英草の冷たい感触を知っている必要がある。間違いなく,作者はそのことを前提にしている。そのひんやりとした感触を想起することで,女の子たちに注がれている暖かい春の日差しのほどが想像され,ようやく光景は質感をもって立ち上がってくるのだからだ。つまり句の狙いは、昔の絵本にあるような傍観的童画的光景ではなく,あたかも作者が一瞬,二人のうちの一人であるかのように気持ちを通わせた光景だと言って良いと思う。句に滲んでいる懐かしさのような情感は,そこから発しているのである。「俳句」(2005年4月号)に島田牙城が寄せた作者への追悼文によれば、掲句は田中裕明の所属した「青」(波多野爽波主宰)への初入選句だという。となれば、このときの作者はまだ高校生だった。高校生にして,既にその後のおのれの俳句への道筋を定めているかのような句境には驚かされる。俳誌「青」(1977年7月号)所載。(清水哲男)


March 2732005

 石蹴りの筋引いてやる暖かき

                           臼田亜浪

石けり
語は「暖か」で春。暖かいかと思えば寒くなったりと,春先の気温はなかなか一定しない。そんな時期がようやく過ぎて,心地よい暖かさの日が訪れてきた。上機嫌の作者は,「石蹴り」遊びをはじめようとしている子供たちを手伝って,「筋」を引いてやっている。舗装された道路などでならロウセキかチョークで、土の道や庭でなら棒切れか何かで……。いずれにしても、大の男が頼まれたわけでもないのに,そんなふうな気まぐれ心が起きたのも、春らしい程よい「暖か」さのためである。たまには、無邪気な句もよいものだ。ところで、この石けり遊び。多くの人が日本の伝承遊びだと思っているようだが,日本での歴史は意外にも浅い。明治期に入ってから,外国から輸入された戸外ゲームだ。教育的な効果があるというので、学校を通じて全国的に広められたらしい。発祥の地は、実は古代ローマ帝国時代のイギリスだった。それも最初は兵士の脚力のトレーニングのために開発されたもので、それを子供たちが真似てミニチュア化したものが、遊びとして全ヨーロッパにまず定着したのだった。英語では"hopscotch"と言い、国によってそれぞれの呼び名は違っているけれど、基本的なルールは似たり寄ったりである。写真は、アメリカのサイトから借用したもの。ここには、各国での遊び方も紹介されている。日本の「石けり」は昨今すっかりすたれた格好だが,これを見る限り,彼の地ではファミリー・イベントなどでもよく行われているようである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男)


March 2832005

 蛇穴を出づるとの報時計見る

                           鈴木鷹夫

語は「蛇穴を出づ」で春。ははは、とても可笑しい。面白い。でも、どういうシチュエーションなのだろうか。冬眠から覚めた「蛇」を見かけたという「報」が入った。「ずいぶんまた、今年は早く出てきたな」と思った作者は、途端に無意識に「時計」に目をやったというのである。つまり、そこで普通なら「今日は何日だったかな」と壁に掛けたカレンダーなどで確認するところを、思わずも「いま、何時だろう」とばかりに、時計を見てしまったというわけだ。カレンダー付きの時計もなくはないけれど、そうした種類の時計ではない。あくまでも、普通の時計だからこそ可笑しいのだ。咄嗟の行為だから,シチュエーションとしては電話で報せてきたと考えるのが妥当で,手紙だったらこのような間違いにはいたらないはずだ。作者はとにかく間抜けなことをやっちまったわけだが、しかしこの種の間抜けは、誰にでも思い当たる質の間抜けである。すっかり日常的に身についている行為が,何かの判断ミスから、すっと出てきてしまう。だが、その間抜けは、多く自分にだけわかる性質のものであり、たとえばこのときに誰かが作者の傍らにいたとしても、単に時計を見た作者の行為が間抜けとはわからないわけだ。したがって,間抜けの主人公は一瞬「しまった」と思い,だが次の瞬間には(誰にもそれと悟られなくて)「ああ、よかった」となる。ましてや、この場合の素材が眠りから覚めたばかりでボオッとしているであろう蛇だから,余計に可笑しく写る。そんな微妙な色合いの失敗を、淡々として提出している作者は,おそらく人生の機微をよく知る人なのだろう。『千年』(2004)所収。(清水哲男)


March 2932005

 春霰へグラビア雑誌かざしけり

                           松村武雄

語は「春霰(しゅんさん)」,「春の霰(あられ)」に分類。ときに大粒のものが降り,せっかく塗った田の畦に穴をあけたり,木の芽や若葉を傷めたりすることがある。そんなときならぬ春の霰に,咄嗟に「グラビア雑誌」をかざしたと言うのである。むろん、カバンのなかからわざわざ雑誌を取り出したのではなく、さっきまでたとえば電車のなかで開いていたのを、そのまま手にしていたのだ。かざしたのがカバンや新聞だったらさほど絵にはならないけれど、たまたまグラビア雑誌だったので、絵になり句になった。その薄くて大判の雑誌の表紙には,華やかな春の景物が載せられていただろう。かざしながら訝しげに上空を見やる作者の目には,にわかにかき曇った灰色の空と明るい表紙とが同時に飛び込んでいる。パラパラと表紙をうつ霰の音もする。この季節外れの自然のいたずらは、しかし作者にはちっとも不快ではない。どこかで、春の椿事を楽しんでいる様子すらうかがえる。それもこれもが、やはりグラビア誌の明るい表紙のおかげだと読めた。グラビア誌といえば、数年前に「アサヒグラフ」が休刊して以来,この国から本格的なグラビア専門誌が姿を消したままになっているのは寂しい。海の向こうの代表格は,なんといっても「LIFE」だ。つい最近知ったのだが,この雑誌がヘミングウェイの『老人と海』を一挙掲載した号(1952)は,48時間で500万部以上を売り上げたという。遺句集『雪間以後』(2003)所収。(清水哲男)


March 3032005

 水金地火木土天海冥石鹸玉

                           守屋明俊

語は「石鹸玉(しゃぼんだま)」で春。「水金地火木土天海冥(すい・きん・ち・か・もく・ど・てん・かい・めい)」は、水星から冥王星まで,惑星を太陽に近い順に並べた覚え方だ。昔,小学校の教室で習った。先生は「ど・てん・かい・めい」と平板に流さず,この部分を「どってんかいめい」とまるで一語のように発音されたことを覚えている。とかくあやふやになりがちな後半の部分を,強く印象づけようという教授法だったのだろう。おかげて私たちは、惑星というと、前半よりもむしろ「どってんかいめい」のほうに親近感を覚えることになった。さて、掲句。楽しい連想句だ。いくつも「石鹸玉」が飛んでいるのを眺めているうちに,作者はふっと「どってんかいめい」を思い出したのだろう。といって、石鹸玉に宇宙的な神秘性を感じているのでもなければ、両者ともにいずれは消滅してしまうという共通点にものの哀れを感じているのでもない。ふわふわと飛び交う五色の玉の仲間に、巨大な惑星の玉を入れてやることにより,春のひとときの楽しい気持ちがいっそう膨らんでくる。そんな作者の弾んだ気持ちを、読者にもお裾分けした句とでも言うべきか。上五中七で何事がはじまるのかと思わせておいて,最後に可愛らしい「石鹸玉」を差し出してみせた茶目っ気もよく効いている。漢字のみの句は理に落ちる場合が多いが,それがないところにも好感を持った。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


March 3132005

 春や一億蝋人形の含み針

                           豊口陽子

が、どこで切れているのか。しばし迷った。大宅壮一の「一億総白痴化」じゃないけれど、最初は「一億蝋人形」(化)するのかとも考えた。でも、そう読むと、あまりにも構図が単純になってしまい、しかも押し付けがましくなる。私もあなたも「蝋人形」というわけで、決めつけが強引に過ぎるからだ。で、素直に「春や一億」で切ってみた。そうすると、一億の民みんなに春が訪れたと受け取れ,ほとんど「春や春」と同義になる。情景がぱっと明るくなり,蝋人形とのコントラストが鮮明になる。「含み針」は、口に含んだ短い針を敵に吹きつけて攻撃する一種の飛び道具だ。実際に使われたものかどうかは知らないが,時代物の小説などにはよく出てくる。作者は「春や一億」の明るいイメージは、つまるところ表層的なそれに過ぎず,その深層には正体不明の蝋人形がいて、それも含み針を口中に,一億の能天気に一針お見舞いすべく隙をうかがっていると詠んでいる。この、言い知れぬ不安……。蝋人形は不気味だ。どんなに明るい表情に作られていても,その一瞬の表情や仕草が永久に固定されていることから、本物の人間との差異が強調されてしまうからだ。身体的にも精神的にも,およそ運動というものがないのである。いま思い出したが,西條八十が若い頃、空に浮かんだ蝋人形の詩を書いている。八十は不気味にではなく,耽美的に蝋人形をとらえているのだが、私などにはやはり病的な不気味さばかりが印象づけられた世界であった。『薮姫』(2005)所収。(清水哲男)




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