March 042005
世界の子らになの花いろの炒りたまご
呉羽陽子
季語は「なのはな(菜の花)」で春。かつてサルトルは「飢えた子に文学は有効か」という問いを投げかけた。むろん、文学には答えられない質問だ。太古の昔から、子供は状況の被害者となる確率が高い。現代でも飢えはもとより、多くの子供たちが戦争による死、大人による虐殺、人身売買などの危険にさらされている。そんな子供たちが一人残らず、平和な環境で「なの花いろの炒りたまご」を食べられる日がくるだろうか。来ないかもしれない。いや、絶対に来てほしいという願いの込められた美しい句だ。こうした句は、案外と難しい。理屈に走ればヒューマニスト気取りと受け取られかねないし、感情に溺れればヒステリックな夢想家のように思われがちだからだ。実際、この世は子供や老人、障害者などの弱者に対して、多く偽善的である。断言できる。いつだって建前論を床の間に飾って、具体的には問題を遠くへ遠くへと排除しやり過ごしてしまうのだ。だからこのときに、有季定型俳句であろうとも、弱者への建前的ではない祈りや願望を表現することは、この世の「暗黙の秩序」にどこかで実質的には逆らうことになる。この句も、もちろんそうした構造を持っているだろう。だが、そのあたりがあからさまに露出して見えてこないのは、やはり「なの花いろ」の圧倒的な美しさを、読者が強く感じるからに違いない。その意味で、有季を巧みに取り入れた作品だと言える。それこそ良く出来た「炒りたまご」のようにふんわりと柔らかく、しかし有無を言わせず私たちに訴えてくるものがある。鴎座合同句集『翔』(2004)所載。(清水哲男)
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