我がマンションでも光ファイパー導入へ。この際プロバイダーも変えようかと思案中。




2005ソスN3ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1332005

 街角の風を売るなり風車

                           三好達治

語は「風車(かざぐるま)」で春。中国から渡ってきた玩具で、中世のころから知られていた。春のはじめに多く作られたことから、春の季語とされたようだ。街角の風車売り。それだけで絵になるし、郷愁にも誘われる。その様子を風車を売っていると言わずに、「風を売る」と言い止めた。この句を読んで、「なるほど、上手いことを言ったものだ」と思う人もいるだろうし、逆に「きざっぽいなあ」とひっかかる人もいそうだ。はじめて掲句を知ったときの私は前者であったが,今では後者に傾いている。むろん、作者の洒落っ気はわかる。粋な味付けだ。だが最近の私は,こうした一種の機知をうとましく思いはじめた。四角四面に「風を売る」なんて嘘じゃないかと言うつもりは毛頭ないのだけれど、あまりにも作者の「どうだ、上手いもんだろ」と言わんばかりのポーズが鼻についてしまうからである。このあたり、俳句は短いがゆえに、鼻につくかどうかも紙一重だ。ま、小唄だと思って読めば、そう目くじらを立てることもあるまいが、このような機知の用いようは、ときに大きく物事の本質をはぐらかすほうに働く恐れは大だとは言っておきたい。もっとも、それが狙いさと言われれば,それまでだけれど……。それにつけても、ああ街角のセルロイドの風車。買いたいときには買えなかったし,買おうと思えば買えるようになったときには欲しい気持ちが失せていた。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 1232005

 老人の立つまでの間の虻の声

                           清水径子

語は「虻(あぶ)」で春。歳を取ってくると,どうしても動作が緩慢になってくる。口悪く言えば、ノロ臭くなる。作者の前で,いましもひとりの「老人」がのろのろと立ち上がっているところだ。「よっこらしょ」という感じが、なんとも大儀そうだ。と、そこにどこからともなく「虻の声」がしてきた。作者はいわば本能的に警戒する構えになっているが、老人のほうは立ち上がるのが精一杯という様子で,虻の接近を知ってか知らずか,全く警戒する風ではない。ただそれだけのことながら、この句には老人の身体のありようというものが見事に描かれている。といって,哀れだとかお可哀想になどという安手な感傷に落ちていないところが流石である。年寄りの緩慢は、敏捷な時代の果てにあるものだ。だから、身体のどこかの機能には敏捷な動きが残っている。すべての機能が平等に衰えてくるというものではない。したがって、このときにもしも老人に虻が刺そうとして近づいたとしたら,彼は長年の経験から,ノロ臭いどころか手練の早業で叩き落としてしまうかもしれない。あえて言えば,老人の身体にはそうした不可解さがある。若い者にはときに不気味にすら思えたりするのだが,そうしたことまでをも含んだ「立つまでの間」なのだ。他ならぬ私の動作も,だんだんノロ臭くなってきた。だから余計に心に沁みるのかもしれない。また掲句からは,俳句の素材はどこにでもあることを、あらためて思い知らされたのでもあった。『清水径子全句集』(2005)所収。(清水哲男)


March 1132005

 あらうことか朝寝の妻を踏んづけぬ

                           脇屋義之

語は「朝寝」で春。春眠暁を覚えず……。よほど気が急いていたのか、何かに気を取られていたのだろう。「あっ、しまった」と思ったときは、もう遅かった。「あらうことか」、寝ている妻を思い切り「踏んづけ」てしまったというのである。一方の熟睡していた奥さんにしてみれば,強烈な痛みを感じたのは当然として、一瞬我が身に何が起きたのかがわからなかったに違いない。夫に踏まれるなどは予想だにしていないことだから、束の間混乱した頭で何事だと思ったのだろうか。この句は「踏んづけた」そのことよりも、踏んづけた後の両者の混乱ぶりが想像されて,当人たちには笑い事ではないのだけれど,思わずも笑ってしまった。こうして句にするくらいだから、もちろん奥さんに大事はなかったのだろう。私は妻を踏んづけたことはないけれど,よちよち歩きの赤ん坊に肘鉄を喰らわせたことくらいはある。誰にだって、物の弾みでの「あらうことか」体験の一つや二つはありそうだ。この句を読んで思い出したのは、川崎洋の「にょうぼうが いった」という短い詩だ。「あさ/にょうぼうが ねどこで/うわごとにしては はっきり/きちがい/といった/それだけ/ひとこと//めざめる すんぜん/だから こそ/まっすぐ/あ おれのことだ/とわかった//にょうぼうは/きがふれてはいない」。「あらうことか」、こちらは早朝に踏んづけられた側の例である。『祝福』(2005・私家版)所収。(清水哲男)




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