野菜の切り方」というサイトを見つけた。右利き用と左利き用に分けたイラスト付き。




2005ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1532005

 蟻穴を出づる尻のみな傷み

                           皆吉爽雨

語は「蟻穴を出づ」で春。「地虫穴を出づ」に分類。「尻」は「いしき」と読ませている。衣服の尻当てのことを、昔は「いしき当て」と言った。春,暖かくなってきて,「蟻」たちが巣穴から出てきた。次々に出てくる彼らの「尻」は、しかし、固い表面の土にこすれて「みな傷(いた)」んでいると言うのだ。無惨というほどではないにしても、新しい生活に入るときには、みなこのように傷を負うのだという示唆は鋭い。そしてまたこの句には、生きとし生けるものの根源的な哀しみのようなものが滲んでいる。一見写生句のようにも思えるが,とうていこれは写生という範疇の叙述ではあり得ない。写生を突き詰めていって,その果てに忽然と生まれた想像の世界とでも言うべきだろうか。爽雨の晩年に詠まれた句で,感じたのは,ここには高齢者でなくては発想できない詩心があるということだった。老人にとっての巡り来る春とは,若年の頃のようにただ楽天的に謳歌できる性質のものではないからだ。春に新生の息吹きを感じるがゆえに,他方では滅びへの感覚も研ぎすまされてくる。それが作者にとっての「尻の傷」というわけだ。たとえ傷を負おうとも,若さはそれを苦もなく乗り越えられる。が、老人は負ったままで、これからも暮らさねばならぬことを知っている。その意識が,蟻たちに向けられたとき、はじめてみずからの不安定な心根をこのように詠み得たということになる。自愛と自虐,慈愛と残酷さが混在したまなざしだ。掲句は作者の孫の皆吉司『どんぐり舎の怪人・西荻俳句手帖』(2005・ふらんす堂)で知った。肉親ならではの爽雨像に、格別の関心をもって読んだ。好著である。句は『声遠』(1982)所収。(清水哲男)


March 1432005

 鎌倉を驚かしたる余寒あり

                           高浜虚子

語は「余寒(よかん)」で春。本格的な春も間近というときになって、突然寒波が襲ってきた。それも選りに選って温暖な湘南の地である「鎌倉」をねらったかのように、である。居住している作者自身が驚かされたのはむろんだが、それを鎌倉全体が驚かされたと大きくスケールを広げたところに、この句の新鮮な衝撃力がある。他の鎌倉の住人も驚いたろうが,鎌倉の土地そのものも、そしてさらには鎌倉の長い歴史までもが驚いたと読めるところが面白い。この句について、山本健吉は「淡々と叙して欲のない句」と言っている。「鎌倉の位置、小じんまりとまとまった大きさ,その三方に山を背負った地形,住民の生態などまで、すべてこの句に奉仕する」(『現代俳句』・角川新書)とも……。私はこれに加えて、というよりも、いちばん奉仕しているのは鎌倉という地名が内包している「歴史」なのだと思う。鎌倉幕府の昔より歴史的に濾過されてきたイメージが、読者にぴんと来るからこそ、句は生きてくるのだ。これを鎌倉の代わりに、たとえばすぐ近くの「東京」としたのでは、地形が漠としすぎることもあるけれど、何と言っても歴史が浅すぎて、鎌倉ほどに強いイメージが喚起されることはないだろう。すなわち掲句は、一見「淡々と叙して」いるようでいて、実は地名の及ぼすあれこれの効果をきちんと(瞬時にせよ)計った上で詠めたのだろうと思った。「無欲」という言い方は、ちょっと違うのではなかろうか。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)


March 1332005

 街角の風を売るなり風車

                           三好達治

語は「風車(かざぐるま)」で春。中国から渡ってきた玩具で、中世のころから知られていた。春のはじめに多く作られたことから、春の季語とされたようだ。街角の風車売り。それだけで絵になるし、郷愁にも誘われる。その様子を風車を売っていると言わずに、「風を売る」と言い止めた。この句を読んで、「なるほど、上手いことを言ったものだ」と思う人もいるだろうし、逆に「きざっぽいなあ」とひっかかる人もいそうだ。はじめて掲句を知ったときの私は前者であったが,今では後者に傾いている。むろん、作者の洒落っ気はわかる。粋な味付けだ。だが最近の私は,こうした一種の機知をうとましく思いはじめた。四角四面に「風を売る」なんて嘘じゃないかと言うつもりは毛頭ないのだけれど、あまりにも作者の「どうだ、上手いもんだろ」と言わんばかりのポーズが鼻についてしまうからである。このあたり、俳句は短いがゆえに、鼻につくかどうかも紙一重だ。ま、小唄だと思って読めば、そう目くじらを立てることもあるまいが、このような機知の用いようは、ときに大きく物事の本質をはぐらかすほうに働く恐れは大だとは言っておきたい。もっとも、それが狙いさと言われれば,それまでだけれど……。それにつけても、ああ街角のセルロイドの風車。買いたいときには買えなかったし,買おうと思えば買えるようになったときには欲しい気持ちが失せていた。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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