「お彼岸かぁ」とつぶやいた途端に、漱石の『彼岸過迄』を読みたくなり、少し読んだ。




2005ソスN3ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2132005

 風の日の記憶ばかりの花辛夷

                           千代田葛彦

語は「辛夷(こぶし)」で春。近所の辛夷が咲きはじめた。まだ三分咲きといったところだろうか。が、辛夷の開花スピードは速いので,あと三、四日もすれば満開になるにちがいない。辛夷は背の高い木だから、たいていは花も仰ぎ見ることになる。でも、我が家の居間はマンションの一階だけれど、真っすぐ水平に目をやれば見ることができる。というのも、居間から出られる猫の額ほどの庭の塀の向こう側が小さな崖状になっていて、その下の小公園に植えられているからだ。木の高さは、十メートル程度はあるだろう。その高いところがちょうど正面に見えるわけで、咲きはじめるとイヤでも目に入ってくる。花辛夷見物特等席なり。で、もうかれこれ四半世紀は、毎春この花を正面に見てきたことになり、たしかに句にあるように「風」の記憶とともにある。早春の東京は風の強い日が多く,ときに花辛夷は無数の白いハンケチがちぎれんばかりに振られている様相を呈する。子供のころからこの季節の風は体感的に寒いので嫌いだったが,コンタクトをするようになってからは実害も伴うので,ますます嫌いになった。そんなわけで外出の折りには、いつの頃からか、あらかじめこの花辛夷の揺れ具合を確かめるのが癖になり、揺れていないと機嫌良く出かけられるということに……。ま、風速計代わりですね。掲句の実景は、ちょうどいまごろの様子だろうか。あるいはまだ、まったく咲いていないのかもしれない。また風の季節がやってくるなと,作者は来し方の早春のあれこれを漠と思い出している。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 2032005

 かたまり黙す農民の馬鹿田螺の馬鹿

                           安藤しげる

語は「田螺(たにし)」で春。田圃の隅っこのほうで、いくつもの田螺がのろのろと這っている。子供時代,そんな情景は何度も目にしたが,ノロ臭いなと思うくらいで格別興味を持ったことはない。食べられることも知らなかった。そんな田螺同様に,「農民」もまた「かたまり黙」していると言うのだ。この句からだけではわからないが、このとき(昭和三十年代前半)二十代の作者は鉄工として働いていた。「火蛾・鉄工生きる荒さを一つの灯に」。職場での組合活動にも熱心だったようだ。したがって「かたまり黙す農民」とは一見類型的な農民像のようだけれど、そうではないのである。双方同じ労働者ながら、組織労働者としての作者からすると、現実の諸矛盾にいっかな声をあげようとしない農民のありようには、とても歯痒いものがあったのだろう。その意識のなかでの「馬鹿」である。すなわち、労働者としての親愛の情と歯痒い思いとがないまぜになった「馬鹿」。まるで「田螺」みたいじゃないかと言いつつも,決して軽蔑したりコケにするための「馬鹿」ではないのだ。どこか呑気な田螺の姿を持ち込んだことで,作者の意図した「馬鹿」の中味とニュアンスが誤解なく伝わってくる。戦後の一時期の気分を代表した佳句と言ってよいだろう。戦後も六十年.労働者の姿も大きく変貌した。しかるがゆえにか、労働の現場から発する俳句も少なくなった。多くの人が,まるで働いていないかのような句ばかりを好んで詠んでいる。『胸に東風』(2005)所収。(清水哲男)


March 1932005

 春愁やとろとろ茹でる石つころ

                           八木忠栄

語は「春愁」。明るく浮き立つ気分になる春だが(だからこそ)、ふっと謂れなき愁意を覚えることがある。はっきりとした憂鬱ではなく,あてどない物思いという感じだ。何でしょうかね,この哀感とは。掲句は、こうした質問に対する一つの解答のようにも読めるが,しかしそうではあるまい。やはり作者も「何でしょうかね」と首を傾げているのではなかろうか。つまり、「春愁」とは「石つころ」を茹でるようなものだと言っているのではないだろう。一見そのようにも思えるのは「とろとろ」という修辞のせいであって、しかしこの場合に「春愁」と「石つころ」とは何の関係もないのである。「とろとろ」をよく読むと,石っころを茹でる状態を言っていると同時に,実は「春愁」の状態にも掛けられている。本来無関係な両者が,この「とろとろ」で結びつけられているのだ。ここらへんが俳句表現の妙味だろうが、ここに着目することによって、作者の「何でしょうかね」がそれこそ「とろとろ」と浮き上がってくる仕掛けだ。作者はあるとき,不意に哀愁にとらわれた。が、それは決して暗いばかりのそれではない。どこかに、むしろほのかな甘美感も漂っている。その「とろとろ」した思いのなかで,「とろとろ」と石っころを茹でている。でも、異物を茹でているという意識は全くない。当然のように,ごく自然なこととして茹でている。何故,このようなことが自分に起きているのか。そんな疑問すら抱かせない「春愁」とは、いったい「何でしょうかね」。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)




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