昔「パンも年をとる」という詩を書いた。「その通りだなあ」と思いつつパンを食べる。




2005ソスN3ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2332005

 春の木になりて縄など垂らすかな

                           鳴戸奈菜

い句だ。いや、逆に可憐な句と言ってもよい。一読,鮮やかな女性「性」を感じた。が、もしかすると作者はそのことに無意識であるかもしれない。それほどに、句柄がすっとしているからだ。でも、男が読めば、すっとしているほどに強い女性「性」を感じるのである。作者の名前が伏せられていたとしても,男の句ではないことがすっと伝わってくる。同じようなことを詠むとしても、男だったら「春の木を見れば縄など垂れている」程度になるだろうか。夏や秋の木ではなく、ましてや冬のそれでもなく,これから花開こうかという「春の木になる」。明るくも生臭い春の木は、しかしみずから動くことはかなわない。あくまでもじいっと立ったままなのであり、徹底して受け身である。その身悶えせんばかりの悩ましさから,少しでも解放されるために、せめて出来ることと言えば「縄など垂らす」ことくらいだろう。木の芽時の縄だから、もとより通りかかる誰かの自殺への誘惑装置として垂らすのだ。そこが「怖い」と感じさせる所以だが,しかし女性の根元的な「性」、当人も無意識であるかもしれない「性」のありようには、常に「縄など垂らす」ようなところがあるのだと思う。突き詰めた物言いをしておけば、死への誘惑がひそんでいる。したがって、その意味で理解するとなると、何の外連み(けれんみ)も無くすっと提出している作者の心情は,むしろ可憐の側にあるとも言えるのである。『鳴戸奈菜句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


March 2232005

 サヨナラがバンザイに似る花菜道

                           正木ゆう子

語は「花菜(はなな)」で春。「菜の花」のこと。ふつう「サヨナラ」の仕草は片手をあげ、「バンザイ」は両手で表現する。だから「似る」わけはないのだが、そうでもないときがある。たとえば、子供たちの卒業式からの帰り道だ。一面に「花菜」が咲き乱れる道を,いつものように連れ立って帰ってゆく。が、今日は特別の日だ。別れ道で「じゃあね」といつものように片手をあげて別れるのだが、しばらくすると遠くのほうから「サヨーナラーッ」と声がする。見ればいま別れた友だちが、手を振っている。で、こちらも振りかえす。遠ざかりながら何度も手を振りあううちに,最後は双方とも両手をあげて大きく振るようになる。傍目からすれば「バンザイ」の仕草に似てしまうわけだが、当人たちにはあくまでも「サヨナラ」なのだ。いや、たとえ最後まで片手を降っていたとしても,花菜道の明るさが「バンザイ」を想起させるということでもよさそうである。微笑してそんな情景を見ている作者には、しかし「サヨナラ」が「バンザイ」に似ようとも,彼らのこれからの長い人生のことなどがちらと思われて、すっと甘酸っぱいようなほろ苦いようなものが、胸をかすめたことだろう。この「バンザイ」に似た「サヨナラ」で,親しく手を振りあった同士が、もう二度と会わないことだってあるとするならば……。『悠 HARUKA』(1994)所収。(清水哲男)


March 2132005

 風の日の記憶ばかりの花辛夷

                           千代田葛彦

語は「辛夷(こぶし)」で春。近所の辛夷が咲きはじめた。まだ三分咲きといったところだろうか。が、辛夷の開花スピードは速いので,あと三、四日もすれば満開になるにちがいない。辛夷は背の高い木だから、たいていは花も仰ぎ見ることになる。でも、我が家の居間はマンションの一階だけれど、真っすぐ水平に目をやれば見ることができる。というのも、居間から出られる猫の額ほどの庭の塀の向こう側が小さな崖状になっていて、その下の小公園に植えられているからだ。木の高さは、十メートル程度はあるだろう。その高いところがちょうど正面に見えるわけで、咲きはじめるとイヤでも目に入ってくる。花辛夷見物特等席なり。で、もうかれこれ四半世紀は、毎春この花を正面に見てきたことになり、たしかに句にあるように「風」の記憶とともにある。早春の東京は風の強い日が多く,ときに花辛夷は無数の白いハンケチがちぎれんばかりに振られている様相を呈する。子供のころからこの季節の風は体感的に寒いので嫌いだったが,コンタクトをするようになってからは実害も伴うので,ますます嫌いになった。そんなわけで外出の折りには、いつの頃からか、あらかじめこの花辛夷の揺れ具合を確かめるのが癖になり、揺れていないと機嫌良く出かけられるということに……。ま、風速計代わりですね。掲句の実景は、ちょうどいまごろの様子だろうか。あるいはまだ、まったく咲いていないのかもしれない。また風の季節がやってくるなと,作者は来し方の早春のあれこれを漠と思い出している。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます