March 242005
夜の明ぬ松伐倒すさくらかな
陽 和
江戸期の句.朝飯前の一仕事だ。「夜の明(あけ)ぬ」とはあるが、まだ完全には明けていない状態を言ったのだろう。しらじらと明け初めてきた山道を木樵(きこり)がやってきて、そこにある「松」の木を伐り倒した。この場合の松の木は、相当な大木であるほうが句景にふさわしい。木樵と大木とが、いわば格闘する感じである。そんな格闘の末に,どうと地響きをたてて松が倒れる。と、それまではほとんど視界になかった満開の「さくら」が、ぱあっと眼前に現われたというわけだ。まだ、山は薄暗い。その薄明のなかに真っ白に浮き出た桜花の美しさときたら,どうだろう。しばし木樵は、陶然として眺めたにちがいない。たまたま伐り倒した松の向こうに、たまたま桜の木があったにすぎないが、黒っぽい松の木だけに、この「たまたま」は天の配剤のように写る。この句の手柄は,まず人の姿を出さずにドラマを創出したところだ。そしてさらには、情景の鮮明な映像化を果たしたこともさることながら、句に映像だけでなく,山の匂いまでをもにおわせている点である。伐り倒した松の木が発散する濃密な匂いがあたりに立ちこめ,その向こうには無臭の桜花が爛漫と展開している。松と桜の景の取り合わせが匂いのそれにまで及んでいるから,読者はまことに清々しい思いで句を反芻することができるのである。いいなあ、山の朝は……。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)
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