"Why do old men wake so early? Is it to have one longer day?" E.HEMINGWAY




2005N325句(前日までの二句を含む)

March 2532005

 鶯餅かこみて雨にかこまるる

                           鳥居真里子

語は「鶯餅(鴬餅・うぐいすもち)」で春。「1846年(弘化3)になった山東京山の随筆『蜘蛛(くも)の糸巻』に「通人の称美したるものなるに、今は駄菓子や物となりて」と記され、幕末にはこの菓子が桜餅などとともに、春先の甘味としてすでに大衆化していたことがわかる」(「スーパー・ニッポニカ」2002)。その色といい形といい、なるほどいかにも通人の好みそうな餅菓子だ。大衆化したとはいっても、そんなに頻繁に食べられているわけではない。だから掲句のように,たまに食べるとなると,家族みんなで「かこむ」ことになる。束の間の団欒の場ができる。そして、この空間のみに意識をとどめる限りでは、雰囲気はあくまでも明るくてハッピーだ。だが作者は,この情景を望遠レンズで捉えたかのように,いきなり後半でカメラをぐいと引いてみせている。と、この親密な様子の家族をかこんでいたのは、実は暗くて冷たい雨だった。かこんでいる者たちが、さらに大きなものにかこまれているという構図。この構図が,さながらポジをネガに反転させるように働いていて効果的だ。でも、この句の味はそれだけにとどまらないところにあるだろう。この構図をしばらく眺めているうちに,読者の目が戸外の雨を離れて,再び団欒のクローズアップへと誘われる点である。その目は一度暗くて冷たい雨を見てしまっているので,再度の団欒の場は余計に親密度の濃い空間に見え,かこまれた鴬餅の風情もいちだんと明るくハッピーに写るのである。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


March 2432005

 夜の明ぬ松伐倒すさくらかな

                           陽 和

戸期の句.朝飯前の一仕事だ。「夜の明(あけ)ぬ」とはあるが、まだ完全には明けていない状態を言ったのだろう。しらじらと明け初めてきた山道を木樵(きこり)がやってきて、そこにある「松」の木を伐り倒した。この場合の松の木は、相当な大木であるほうが句景にふさわしい。木樵と大木とが、いわば格闘する感じである。そんな格闘の末に,どうと地響きをたてて松が倒れる。と、それまではほとんど視界になかった満開の「さくら」が、ぱあっと眼前に現われたというわけだ。まだ、山は薄暗い。その薄明のなかに真っ白に浮き出た桜花の美しさときたら,どうだろう。しばし木樵は、陶然として眺めたにちがいない。たまたま伐り倒した松の向こうに、たまたま桜の木があったにすぎないが、黒っぽい松の木だけに、この「たまたま」は天の配剤のように写る。この句の手柄は,まず人の姿を出さずにドラマを創出したところだ。そしてさらには、情景の鮮明な映像化を果たしたこともさることながら、句に映像だけでなく,山の匂いまでをもにおわせている点である。伐り倒した松の木が発散する濃密な匂いがあたりに立ちこめ,その向こうには無臭の桜花が爛漫と展開している。松と桜の景の取り合わせが匂いのそれにまで及んでいるから,読者はまことに清々しい思いで句を反芻することができるのである。いいなあ、山の朝は……。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


March 2332005

 春の木になりて縄など垂らすかな

                           鳴戸奈菜

い句だ。いや、逆に可憐な句と言ってもよい。一読,鮮やかな女性「性」を感じた。が、もしかすると作者はそのことに無意識であるかもしれない。それほどに、句柄がすっとしているからだ。でも、男が読めば、すっとしているほどに強い女性「性」を感じるのである。作者の名前が伏せられていたとしても,男の句ではないことがすっと伝わってくる。同じようなことを詠むとしても、男だったら「春の木を見れば縄など垂れている」程度になるだろうか。夏や秋の木ではなく、ましてや冬のそれでもなく,これから花開こうかという「春の木になる」。明るくも生臭い春の木は、しかしみずから動くことはかなわない。あくまでもじいっと立ったままなのであり、徹底して受け身である。その身悶えせんばかりの悩ましさから,少しでも解放されるために、せめて出来ることと言えば「縄など垂らす」ことくらいだろう。木の芽時の縄だから、もとより通りかかる誰かの自殺への誘惑装置として垂らすのだ。そこが「怖い」と感じさせる所以だが,しかし女性の根元的な「性」、当人も無意識であるかもしれない「性」のありようには、常に「縄など垂らす」ようなところがあるのだと思う。突き詰めた物言いをしておけば、死への誘惑がひそんでいる。したがって、その意味で理解するとなると、何の外連み(けれんみ)も無くすっと提出している作者の心情は,むしろ可憐の側にあるとも言えるのである。『鳴戸奈菜句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます