阪神タイガース70周年記念の「Tigers PC」本日より発売。ここまでやりますかねえ(笑)。




2005ソスN3ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2632005

 紫雲英草まるく敷きつめ子が二人

                           田中裕明

語は「紫雲英草(げんげそう)」で春、「紫雲英」の項に分類。「蓮華草(れんげそう)」とも。かつては田圃で広く栽培され,肥料として春の田に鋤き込まれていた。いちめんに紫雲英咲く田圃の風景は,絵のように美しかった。私にも覚えがあるが,花を摘んでは首飾りめいたものなどを作って遊んだものだ。句の「子」は、「二人」とも女の子だろう。二人は,とある農家の庭先で,ままごと遊びでもしているのか。カーペットに模したつもりだろう、たくさんの紫雲英を取ってきてていねいに「まるく敷きつめ」、その上にちょこんと坐って遊んでいるのだ。それだけの光景ではあるけれど,この句を味わうためには,尻の下に敷いた紫雲英草の冷たい感触を知っている必要がある。間違いなく,作者はそのことを前提にしている。そのひんやりとした感触を想起することで,女の子たちに注がれている暖かい春の日差しのほどが想像され,ようやく光景は質感をもって立ち上がってくるのだからだ。つまり句の狙いは、昔の絵本にあるような傍観的童画的光景ではなく,あたかも作者が一瞬,二人のうちの一人であるかのように気持ちを通わせた光景だと言って良いと思う。句に滲んでいる懐かしさのような情感は,そこから発しているのである。「俳句」(2005年4月号)に島田牙城が寄せた作者への追悼文によれば、掲句は田中裕明の所属した「青」(波多野爽波主宰)への初入選句だという。となれば、このときの作者はまだ高校生だった。高校生にして,既にその後のおのれの俳句への道筋を定めているかのような句境には驚かされる。俳誌「青」(1977年7月号)所載。(清水哲男)


March 2532005

 鶯餅かこみて雨にかこまるる

                           鳥居真里子

語は「鶯餅(鴬餅・うぐいすもち)」で春。「1846年(弘化3)になった山東京山の随筆『蜘蛛(くも)の糸巻』に「通人の称美したるものなるに、今は駄菓子や物となりて」と記され、幕末にはこの菓子が桜餅などとともに、春先の甘味としてすでに大衆化していたことがわかる」(「スーパー・ニッポニカ」2002)。その色といい形といい、なるほどいかにも通人の好みそうな餅菓子だ。大衆化したとはいっても、そんなに頻繁に食べられているわけではない。だから掲句のように,たまに食べるとなると,家族みんなで「かこむ」ことになる。束の間の団欒の場ができる。そして、この空間のみに意識をとどめる限りでは、雰囲気はあくまでも明るくてハッピーだ。だが作者は,この情景を望遠レンズで捉えたかのように,いきなり後半でカメラをぐいと引いてみせている。と、この親密な様子の家族をかこんでいたのは、実は暗くて冷たい雨だった。かこんでいる者たちが、さらに大きなものにかこまれているという構図。この構図が,さながらポジをネガに反転させるように働いていて効果的だ。でも、この句の味はそれだけにとどまらないところにあるだろう。この構図をしばらく眺めているうちに,読者の目が戸外の雨を離れて,再び団欒のクローズアップへと誘われる点である。その目は一度暗くて冷たい雨を見てしまっているので,再度の団欒の場は余計に親密度の濃い空間に見え,かこまれた鴬餅の風情もいちだんと明るくハッピーに写るのである。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


March 2432005

 夜の明ぬ松伐倒すさくらかな

                           陽 和

戸期の句.朝飯前の一仕事だ。「夜の明(あけ)ぬ」とはあるが、まだ完全には明けていない状態を言ったのだろう。しらじらと明け初めてきた山道を木樵(きこり)がやってきて、そこにある「松」の木を伐り倒した。この場合の松の木は、相当な大木であるほうが句景にふさわしい。木樵と大木とが、いわば格闘する感じである。そんな格闘の末に,どうと地響きをたてて松が倒れる。と、それまではほとんど視界になかった満開の「さくら」が、ぱあっと眼前に現われたというわけだ。まだ、山は薄暗い。その薄明のなかに真っ白に浮き出た桜花の美しさときたら,どうだろう。しばし木樵は、陶然として眺めたにちがいない。たまたま伐り倒した松の向こうに、たまたま桜の木があったにすぎないが、黒っぽい松の木だけに、この「たまたま」は天の配剤のように写る。この句の手柄は,まず人の姿を出さずにドラマを創出したところだ。そしてさらには、情景の鮮明な映像化を果たしたこともさることながら、句に映像だけでなく,山の匂いまでをもにおわせている点である。伐り倒した松の木が発散する濃密な匂いがあたりに立ちこめ,その向こうには無臭の桜花が爛漫と展開している。松と桜の景の取り合わせが匂いのそれにまで及んでいるから,読者はまことに清々しい思いで句を反芻することができるのである。いいなあ、山の朝は……。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)




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