2005N4句

April 0142005

 呑むために酒呑まない日四月馬鹿

                           的野 雄

語は「四月馬鹿」で春。四月一日は嘘をついても許される日ということになっているが、その嘘もだまされた人のことも「四月馬鹿」と言う。掲句はちょっと本義からは飛躍していて、自嘲気味にみずからの「馬鹿」さ加減に力点が置かれている。「酒呑まない日」とはいわゆる休肝日で、必死で禁酒しているわけだが、考えてみれば、これはまた明日から「呑むため」の必死なのだ。アホらしくもあり滑稽でもあり、というところだろう。常飲者でない人からすれば不可解な必死だろうが、当人にしてみれば真剣な刻苦以外のなにものでもないのである。友人にも必ず週に一日は呑まない日を設定している飲み助がいるので、そのしんどさはよく話に聞く。聞くも涙の物語だ。ところで、この季語「四月馬鹿」については苦い思い出がある。数年前にスウェーデンと日本との合同句集を作ろうという企画があり、日本側の選句を担当した。で、四月馬鹿の句には、できるだけバカバカしくて可笑しい句を選んだ。だが、他の選句には何の異論も出なかったものの、この一句のみには先方から同意できないとクレームがついてしまった。理由は明快。スウェーデンでは、四月馬鹿は敬虔な日なのであって、決して笑いふざけるような日ではないからというものだった。合同句集のタイトルが『四月の雪』とつけられたことでもわかるように、彼の地の冬は長い。その暗鬱な季節からようやく解放される予兆をはらんだ四月馬鹿の日。ふざけるよりも、季節の巡りに頭を垂れたくなるほうが自然だろう。私なりにそう納得して、選句は撤回したのだったが……。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


April 0242005

 苗代に鴉を吊し出稼ぎへ

                           小菅白藤

語は「苗代(なわしろ)」で春。いまでは稲の苗は育苗箱で育てられるが、昔は小さく区切った田に種もみを蒔いて育てた。田園地帯のそこここに早緑色の苗が育つ様子は、美しいものだった。句のような光景は見たことはないけれど、「鴉」のむくろを吊るしておくのは害鳥対策なのだろう。効果があるのかないのか、しかし「出稼ぎ」で留守をする身にしてみれば、そんなことは言っていられない。家にとどまっていればちょくちょく見回りもできるが、それがかなわないのだから、気休めであろうとも何か対策をこうじて置かなければ不安なのである。作者が出稼ぎに出た後に、だらりと吊るされて腐食していく鴉の様子までがうかがわれて、切なくなる。作者の苗代のみならず、あちらにもこちらにも……。稲作農家にとって、現金収入への道は乏しい。年に一度の収穫物を売ってしまったら、まとまった収入を得る手段はないからである。昔はそれでも、ある程度の田圃を持っていればやっていけたのが、高度成長期に入ったあたりから、農村でも現金がないと暮らしが立ち行かなくなってきた。自給自足をしようにも、農業の効率化機械化が奨励され、そのための元手に手持ちの現金では足りるはずもない。多くの農民が借金に苦しみ、不本意な出稼ぎへと追い立てられていったのだった。山口の中学時代の友人たちは、ほとんどが山陽新幹線の土台作りにたずさわったという。たまに乗るだけだが、乗るたびにそのことを思い出して、なんだか息苦しくなってしまう。『現代俳句歳時記・春』(2004)所載。(清水哲男)


April 0342005

 ごはん粒よく噛んでゐて桜咲く

                           桂 信子

く噛んでたべなさい。「ごはん粒」は三十回くらい噛むと、甘みが出てきておいしいし、身体のためにも良いのです。子供の頃に、何度も先生からそう言われた。で、三十回ほど噛んでみると、口中のごはん粒はとろとろの液状になり、なるほど甘みが出てくる。たしかに、おいしい。とは思ったけれど、ついによく噛むことは身につかなかった。三十回も噛むというのは意識的な行為だから、食事中は噛むことだけに集中しなければならない。うっかり他のことに思いが行ったりすると、何度噛んだかわからないうちに呑み込んでしまうことになる。すなわち、よく噛もうとする強い意識は、極端に言えば食事全体の楽しさを奪ってしまいかねない。そんなことを気にせずに食べることは、また別の楽しさを伴ったうまさをもたらすのだからだ。掲句は、作者七十歳ころの作品。一般的には、もう子供の頃のような歯よりはだいぶ衰えている年齢である。したがって、逆に噛むことには意識的になってきているのであり、うまさよりも健康のことを考えて、よく噛むことを心がけておられたのだろう。といっても、食事のたびに意識的であるのではなく、時々それこそ昔の先生の教えを思い出したりしてよく噛んでみている。そして、そのようにしていると一種の充実感が芽生えてくる。その充実感を、ごはん粒とは何の関係もない「桜」の開花に結びつけたとき、いっそう晴れやかな気分が立ち上がってきたというわけだ。この「桜」はいま現在の花でもあり、よく噛みなさいと言われた時分の花でもあるだろう。そう読むと、この句には咲き初めた桜のようなうっすらとした哀感が滲んでいるような気もしてくる。『草樹』(1986)所収。(清水哲男)


April 0442005

 金貸してすこし日の経つ桃の花

                           長谷川双魚

語は「桃の花」で春。借金をする句は散見するが、金を貸した側から詠まれた句は珍しい。いずれにしても、金の貸し借りは気持ちの良いものではない。とくに相手が親しい間柄であればあるほど、双方にしこりが残る。頼まれて、まとまった金を貸したのだろう。とりあえず当面の暮らしに支障はないが、いずれは返してもらわないと困るほどの金額だ。相手はすぐにも返せるようなことを言っていたけれど、「すこし日の経(た)つ」今日になっても、何の音沙汰もない。どうしたのだろうか、病気にでもなったのだろうか。それとも、すぐに返せるというのは苦し紛れの口から出まかせだったのか。いや、彼に限っては嘘をつくような人間ではない。そんなことを思ってはいけない。こちらへ出向いて来られないような、何かのっぴきならない事情ができたのだろう。まあ、もう少し待っていれば、ふらりと返しにくるさ。もう、考えないようにしよう。等々、貸した側も日が経つにつれ、あれこれと気苦労がたえなくなってくる。貸さなければ生まれなかった心労だから、自分で自分に腹立たしい思いもわいてくる。気がつけば「桃の花」の真っ盛り。こういうことがなかったら、いつもの春のようにとろりとした良い気分になれただろうに、この春はいまひとつ溶け込めない。浮世離れしたようなのどかな花であるがゆえに、いっそう貸した側の不快感がリアリティを伴って伝わってくる。『花の歳時記・春』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


April 0542005

 勿忘草わかものゝ墓標ばかりなり

                           石田波郷

語は「勿忘草(わすれなぐさ)」で春。英語では"Forget-me-not"、ドイツ語では"Vergissmeinnicht"という名だから、原産地であるヨーロッパのいずれかの言語からの翻訳だろう。命名の由来をドイツの伝説から引いておく。「昔、ルドルフとベルタという恋人同士が暖かい春の夕べ、ドナウ川のほとりを逍遙(しようよう)していた。乙女のベルタが河岸に咲く青い小さな花が欲しいというので、ルドルフは岸を降りていった。そして、その花を手折った瞬間、足を滑らせ、急流に巻き込まれてしまった。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸辺に投げ、「私を忘れないでください」と叫び、流れに飲まれてしまう。(C)小学館」。なんとも純情な物語だが、俳句ではこうした原意を受けて詠まれるときと、花の名の由来とは無関係に詠まれる場合とがある。とくに近年になればなるほど、由来を踏まえた句が少なくなってきたのは、この種の純情があまりに時代遅れで古風と写るからにちがいない。そんななかで、掲句はきちんと由来を詠み込んでいる。「わかものゝ墓標ばかり」というのは、かつての戦争で死んでいった若者たちの墓標の多さを言っている。彼らは、まさに恋人(愛する人々)のために闘って倒れたのであり、死の間際には「私を忘れないでください」と心のうちで叫んだであろう。そしてまた、彼らは作者と同世代であった。偶然に近い状況で生き残った作者の、彼らに対してせめてもと手向けた鎮魂の句として忘れ難い。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 0642005

 寝たきりの目を閉じて泣く桜挿せば

                           望月たけし

誌「俳句人」(2005年4月号)のコラムで知った句。「寝たきり」になった父親(と、工藤博司の紹介文にある)に、もう例年のような花見はかなわない。そこでせめてもと思い、作者は花をつけた枝を折りとってきて、花瓶に挿して見せた。父親はしばし凝視していたが、急に「目を閉じ」たかと思うと、声を押し殺して「泣き」はじめたというのである。頬に伝う涙を認めてわかったのだが、しかし作者はそれを正視しつづけることはできなかったろう。おそらくは、はじめて見た父親の涙だ。この涙には、老いた我が身への口惜しさと息子の優しい思いやりへの感謝の念とが入り混ざっている。だからこのときの桜は、単なる花ではありえない。単なる花を越えた、いわば「世間」というものである。私たちの通常の花見にしたところで、たしかに花を見に行くのではあるけれど、花を媒介にして実は世間との触れ合いを楽しむためだと言ってよい。「寝たきり」の人は世間から不本意にも置き去りにされているわけだから、とりわけてそういうことには敏感になるはずだ。そんな孤独な心の枕辺に、華やかに挿された世間としての桜花なのである。誰が泣かずにいられようか……。老いの実相を鮮やかに提出した名句だと思う。『新俳句人連盟創立四五周年記念アンソロジー』(1991)所収。(清水哲男)


April 0742005

 ンの字もソの字も同じ入学す

                           中野寿郎

語は「入学」で春。ははは。「ン」と「ソ」は確かに似ているし、書き順を同じにすると、どっちがどっちなのか区別がつかない。まごまごしているうちに、晴れて小学校入学ということになってしまった。そんな幼いころを、自嘲というほどではないけれど、微苦笑しながら振り返っている。入学の句というと、圧倒的に我が子のそれを詠んだものが多いなかで、掲句は自分の入学を詠んでいて珍しい。一見我が子の句としても通用しそうだが、戦後の小学国語では平仮名表記から教えるから、これは片仮名を先に教えた敗戦以前に入学した人の句と解釈すべきなのだ。他ならぬ私の入学も、敗戦の一年前だった。「ン」と「ソ」の区別に悩まされたクチである。だから、作者の気持ちはよくわかる。「エ」と「ヱ」の書き分けにも戸惑ったし、「イ」と「ヰ」の使い分け方なんてさっぱり理解できなかった。おまけに「清水」という苗字の仮名表記が、なぜ「シミズ」ではなくて「シミヅ」なのであるか。それがまた戦後になると、ころりと逆転して「シミズ」と書けと言われては、何がなんだか……と、かなり目の前が暗くなった。いまひとつ国語になじめなかったのは、案外こんなところに原因があったのかもしれないと思う。全国的に、昨日今日あたりが入学式のピークだろう。いまの子供たちは、どんなことにまごつきながら入学するのだろうか。江國滋『微苦笑俳句コレクション』(1994)所載。(清水哲男)


April 0842005

 三味線や借あふ花の幕隣

                           柳 士

京の桜は満開。この週末は天気も良さそうだし、絶好の見頃になった。また今日は金曜日ということもあり、夜桜見物に繰り出す人も多いはずだ。明日の朝刊には、たぶん上野の山の人出の様子が写真付きで紹介されるだろう。掲句は元禄期の花見風景。「幕」とあるのは、いわゆる幔幕(まんまく)ではなく小袖を幕のように引き回し、その幕の内で花を楽しんだことによる。庶民というか長屋の連中には、とうてい真似のできない豪勢な遊びだ。「花に来て都は幕の盛かな」(宝井基角)。飲むほどに酔うほどに唄のひとつもうたいたくなってきて、見ず知らずの「幕隣」の人から「三味線」を借りて賑やかに過ごす。これも、花見ならではの楽しくも風情ある情景だ。想像するだけでも、心が浮いてくる。詠まれた場所はどこだろうか。残念ながら、句からはわからない。ただ一点、ここが上野の山でないことだけは明白だ。というのも、あそこは寛永寺のれっきとした寺内なので、花の名所ではあったけれど、鳴りもの類などは一切禁止されていたからだ。「大勢の人が出る割に静粛でありました。ですから上野の花見は上品な人が多く、つまり清遊という側に属していました」(岡本綺堂『風俗江戸物語』)。現今の上野からはかけ離れた印象だが、考えてみれば寺内での歌舞音曲などはとんでもないわけで、理屈としては理解できる。しかし、清遊的花見の楽しさとはどんなものだったのだろうか。私などには落語の「長屋の花見」には耐えられても、江戸期の上野の花見に耐える自信はない。綺堂によれば、騒ぎたい人はみな飛鳥山(現・東京都北区)までてくてくと出かけていったそうである。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 0942005

 俳諧はほとんどことばすこし虚子

                           筑紫磐井

季句。私の理解として、句の「俳諧」は「(現代)俳句」と同義だと読んでおく。口うるさく言えば「俳句」は「俳諧の発句」の独立したものだから、同義ではないけれど、句意からして、作者はそれこそ「ほとんど」同義としていると思われる。有季定型句への痛烈な皮肉だ。そう読む人も多いはずだが、ここには皮肉を越えて俳句表現の根底に関わる真摯な問題意識が含まれていると読めた。ヘボ句しかできない私を含めて、多くの有季定型句詠みは、こう言われてしまうとグウの音も出ないからだ。簡単に言ってしまうと、私なら私が自作を「句になった」と思うとき、その「なった」という根拠はたいていが「虚子すこし」というところに依存しているのではあるまいか。逆に、「ほとんど言葉」において「なった」という意識は稀薄だろう。つまり虚子的なるもの、予定調和的に働く季語だとか、あるいは花鳥諷詠の境地だとかに寄りかかってはじめて「なった」と感じているのではないか。したがって、このときに「ほとんど言葉」はどこかに置き去りになってしまう。でも、自己表現を自立させるためには、「虚子すこし」を担保にしては駄目なのだ。戦前の新興俳句や戦後の社会性俳句は、まさにこの点に着目して虚子を否定したのだったが、いつしかまたぞろ虚子を保険にしたような俳句が跋扈している。楽しみで詠めるのも俳句の良いところではあるけれど、その楽しみは可能な限り自分の言葉で語ってこそである。私たちはこのあたりで、「句になった」と判断する自分の物差しを疑ってみる必要がありそうだ。舌足らずに終わってしまうが、詳細については他日を期したい。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


April 1042005

 昼からは茶屋が素湯売桜かな

                           僕 言

として良いとか悪いとか言うのではなく、詠まれている情景に惹かれる句がままある。掲句も、その一つだ。元禄期の句。作者はまさか後世に読まれるだろうことなどは毛頭思わず、ただ同時代人へのレポートとして詠んだわけだが、三百年を経てみると、その時代の興味深い記録的な価値を持つにいたった。花見の名所に小屋掛けの茶店が出て、抹茶を点(た)てて売っている。午前中はそのようにちゃんと営業していたのだけれど、「昼から」になるとどんどん人が繰り出してきて、一人ひとりにきちんと応接できなくなってしまった。で、いささか乱暴な商売になってきて、茶抜きの「素湯(さゆ)」を売り出したというのである。水をわかしただけの単なる湯だ。それでも喉のかわいた人たちが、次から次へと文句も言わずに買って飲んでいる。桜見物のにぎわいを茶店の商品から描き出す着想は、当時としては斬新だったのだろう。この句の情景を現代風にアレンジすると、よく冷えた清涼飲料水やビールなどが売り切れてしまい、生温いものを売っているそれに似ている。「ま、この人出じゃあ仕方がないな」と、私などもつい買ってしまう。では、現代のこの様子を五七五にどうまとめるべきか。しばらく考えてみたが、よい知恵がうかばなかった。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)

[作者名について]「僕言」の「僕」は、正しくはニンベンを省いた「ぼく」の字です。ワープロに無いので、やむを得ず……。


April 1142005

 花の雨やがて雨音たてにけり

                           成瀬櫻桃子

語は「花の雨」で春、「花」の項に分類。桜の花どきに降る冷え冷えとした雨のこと。「花散らしの雨」と言ったりする。桜の花に直接降る雨としてもよいし、べつに桜が眼前に無くてもよい。掲句は、後者の雨だろう。室内にいて、雨の降りはじめたことに気づいた。ちょうど桜の咲いている時期だと、まず気になるのは雨のせいで大量に散ってしまうのではないかということだ。もとよりそんなに深刻な問題ではないけれど、できれば小雨程度ですんでほしいと願うのが人情である。だが、願いもむなしく、「やがて雨音たて」て降りはじめた。ああ、これでもう今年の花もおしまいか……。と、軽い失望感が胸中をよぎったのだ。この感情もまた、春ならではの心持ちと言える。ところで、今日は全国的に雨模様だ。文字どおりに「花散らしの雨」となってしまう地方も多いだろう。そんななかで「雨に重き花のいのちを保ちけり」(八幡城太郎)と、けなげな花を目にできたら嬉しいだろうな。現代俳句文庫19『成瀬櫻桃子句集』(1994・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


April 1242005

 ごくだうが帰りて畑をうちこくる

                           小松月尚

語は「畑打(つ)」で春。「ごくだう」は「極道」だが、この場合は「極道息子」くらいの意味だろう。ぷいっと遊びにいったきり、何日も戻らないこともしばしばだ。近所でもなにかと噂の、他家の不良青年である。それがいつ舞い戻ってきたのか、今日は畑に出て神妙に耕している姿を見かけた。「うちこくる」は方言だろうか。私にはいまひとつ理解しにくい言葉だが、「こくる」の勢いからして、懸命に耕している様子に近いニュアンスではないかと思う。すなわち、彼の耕している姿からすると、もうすっかり心を入れ替えましたと言わんばかりの働きぶりなのだ。でも、この句は「ごくだう」が真面目になってよかった、これでいままでのことは帳消しになるなどと言っているのではあるまい。彼が黙々と「うちこく」れば「うちこくる」ほどに、いつまで続くだろうかという猜疑の心が頭をもたげてくるのである。あんなに急に入れ込んでは、長続きはしそうもないなと読んでいる。そう思うのは、べつに意地悪からではない。私の田舎では、そんな人間のことを「このへんの風(ふう)に合わない」と言っていた。狭い村落共同体の生活を嫌って一度でも飛び出した者は、なかなか元には戻れないものなのだ。そんな若い衆が何人か、私の周辺にもいた。たしかに彼らは村の風とは異なる雰囲気を持っていたし、実家とはすったもんだを繰り返していたようだ。「ごくだう」ではなく「げど(外道)されめ」とののしられつつ、やはり同じように「うちこく」っていた彼らの姿を懐かしく思い出す。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 1342005

 後れ毛や春をそわそわパラフィン紙

                           室田洋子

爛漫などという朗々たる春を捉えたのではなく、極めて日常的な春の喜びを繊細な感覚で詠んだ句だ。うなじの「後れ毛」と包装用の「パラフィン紙」とには何の関係もないのだけれど、「そわそわ」という感覚からすると、両者は手品のように結びつく。いずれもがデリケートな質感を備えており、そわそわとした一種不安定な気分と良くマッチしている。作者はうなじに春を感じながら、たとえば洋菓子のパラフィン紙をそっとはがしているのだろうか。主人公が少女ならば「るんるん」気分になるところだが、作者にはそれらの持つデリカシーの味をも楽しむ気持ちがあるので、やはり「そわそわ」気分と言うしかないのである。パラフィン紙は、別名をグラシン紙と言う。昔の文庫本のカバーがみなこれだったし、いまでも箱入りの本の内カバーとしてよく使われている。カステラの敷き紙なんかもそうだったが、今でも健在かな。半透明で、薄くて破れやすい。私の子供の頃には、大人も含めて俗に「ブーブー紙」と呼んでいた。なぜ「ブーブー」なのかと言えば、この薄紙を口に当てて強く息を吹きかけると「ブーブー」と鳴るからである。他愛無い遊びだったが、鳴らしたときに紙が唇に微妙にふるえて触れるこそばゆさを、いまだに覚えている。『海程樹道場第四集』(2005・群馬樹の会)所載。(清水哲男)


April 1442005

 玉浮子を引き込むものもこの世なり

                           つぶやく堂やんま

季句。作者は釣りをよくする人のようだが、こういう句は頭の中で作れそうでいて、そう簡単にはいかないだろう。やはり、実際に何度となく釣った経験のなかから、生まれるべくして生まれた思いなのだ。というのも、傍目で釣りを見ている人には、ぐぐっと浮子(うき)が引き込まれたときに、「やった」という思いくらいしか湧いてこないからだ。釣り人にもむろん「やった」の思いはあるけれど、しかし傍目の人とは違って、釣る人には「やった」の前のプロセスがある。いっかな引き込まれない浮子を辛抱強く見つめているのもその一つであり、むしろかかった瞬間よりも、その間のことを釣りと言ってもよいくらいだ。このときに浮子は、水面下の世界とのいわば対話の道具となる。釣り人は全神経を集中して浮子をみつめ、水の中で何が起きるのか、あるいは起こらないのかを知ろうとする。そうしているうちにだんだんと、傍目の人には別世界でしかない水中が、親和的な「この世」のように溶け込んでくる感じになる。そして突然、ぐぐっと浮子が引き込まれたとき、引き込んだ魚はまさに「この世」の手応えを伝えるのであり、それは「この世」そのものが引いたと同義に近くなっている。すなわち、「この世」が「この世」を引き込むのだ。カラフルで可愛らしい「玉浮子」だけに、クライマックスの怖いほどの思いが強く印象づけられる。『つぶやっ句・ぼんやりと』(1998・私家版)所収。(清水哲男)


April 1542005

 美しき人は化粧はず春深し

                           星野立子

語は「春深し」。桜も散って、春の艶も極まったころ。句は、真の美人は化粧しないものだなどと、小癪なことを言っているのではない。私は、この「美しき人」に年輪を感じる。どこにもそんなことは書いてないけれど、季語「春深し」との取り合わせから、そう受け取れるのである。「化粧はず」は「けわわず」だ。もはや若いときのように妍を競う欲からも離れ、容貌への生臭いうぬぼれや憧れもない。かといって枯れてしまったのではなく、また俗に言う可愛いおばあちゃんでもなく、おのれ自身の春が極まったとでも言おうか、自然体としての身体がそのままで美しくある「人」に、作者は好感している。いや、羨望の念すら抱いている。この人には、女性「性」のまったき円熟が感じられ、静やかな艶がおのずと滲み出ているのだ。すなわち、それが「春深し」の季節の極まりに深く照応しているのであって、この季語は動かし難い。そしてまた、「深し」すなわち極まりとは早晩過ぎ行くことの兆しをはらんでいるから、句はその兆しをも匂わせていて、ますます艶やかである。書かれたもので読んだのか、直接聞いたのだったかは忘れたが、埴谷雄高が「女は七十代くらいがいちばん良い」という意味のことを述べたことがある。逆説でも、ましてや珍説でもないだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1642005

 野に出でよ見わたすかぎり春の風

                           辻貨物船

語は「春の風」。句意は明瞭だから、解説の必要はないだろう。気持ちのよい句だ。こういう句を読むにつけ、つくづく作者(詩人・辻征夫)は都会っ子だったのだなあと思う。幼い頃に短期間三宅島に暮らしたことはあるそうだが、まあ根っからの下町っ子と言ってよい雰囲気を持っていた。私の交遊範囲で、彼ほどの浅草好きは他には見当たらない。掲句の「野に出でよ」は「野に出て遊ぼうよ」の意だから、私のような田舎育ちには意味はわかっても、素直には口に出せないようなところがある。野に暮らして野に出るといえば、どうしても野で働くほうのイメージが勝ってしまうからだ。島崎藤村の詩「朝」のように、野はぴったりと労働に貼り付いていた。「野に出でよ 野に出でよ/稲の穂は黄に実りたり/草鞋(わらじ)とくゆえ 鎌を取れ/風にいななく 馬もやれ」と、こんな具合にだ。逆に、かつて寺山修司がアンドレ・ジッドの口まねをして「書を捨てて、街に出よう」と言ったときには、わかるなあと思った。こちらは、どう考えても田舎育ちの発想である。すさまじいまでの街への憧れを一度も抱いたことのない者には、それこそ意味は理解できるとしても、心の奥底のほうでは遂にぴったりと来ないのではなかろうか。育った環境とは、まことに雄弁なものである。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


April 1742005

 養生は図に乗らぬこと春の草

                           藤田湘子

にご存知のように、作者は一昨日亡くなられた。享年七十九。主宰誌「鷹」のいちばん新しい号(2005年4月号)で見ると、掲句のように闘病生活を詠んだ句が目立つ。この句ではしかし、だいぶ体調が良くなってこられていたようなので、一愛読者としてはほっとしていたのだが……。元気な人がこんな句を詠んだとしたら、教訓臭ふんぷんで嫌みな感じしか受けないけれど、病者の句となると話は別だ。一般的な教訓などではなく、自戒の意が自然に伝わってくるからである。少しくらい調子が戻ってきたからといって、萌え出てきた「春の草」に喜びを覚えたからといって、ここで「図に乗」っては危険だ。過去に失敗したことがあるからだろうが、作者は懸命に浮き立ちたい気分を押さえ込もうとしている。春の草の勢いとは反対に、おのれのそれを封じ込める努力が「養生(ようじょう)」なのだからと、自分に言い含めているのだ。このモノローグは、同じ号に載っている「春夕好きな言葉を呼びあつめ」「着尽くさぬ衣服の数や万愚節」などと読み合わせると、老いた病者の養生が如何に孤独なものかがうかがわれて、胸が痛む。これらの句は、作者の状況を知らない者にとっては、相当にゆるくて甘い句と読めるかもしれない。だが、掲載誌は結社誌なのだから、これで通じるのだし、これでよいのである。俳句が座の文芸であることを、しみじみと感じさせられたことであった。合掌。(清水哲男)


April 1842005

 人の声花の骸を掃きをれば

                           清水径子

かな春の昼下がり。作者は、庭一面に散り敷いた桜の花びらを掃いている。と、どこからかかすかに「人の声」が聞こえてきた。散った桜の花びらを「花の骸(むくろ)」とは、一歩間違うと、大袈裟で仰々しい見立てにもなりかねない。だが、読者にそれをまったくあざとく思わせないところが、この句の凄さだろう。それは一にかかって、「人の声」との取り合わせによる。言うまでもないことながら、このときに「人の声」は骸に対する「生」の象徴だ。ここに人声がしなければ、作者にも花びらを骸とみなす意識は生まれなかったはずである。すなわち、作者ははじめから骸を掃いていたのではなくて、人声が聞こえたので、そこではじめて掃いている対象を骸と認識したのであった。「生」に呼び起こされる格好で、眼前の花びらの「死」が鮮やかに浮き上がってきたというわけだ。だから、骸という物言いにあざとさが微塵もないのである。掃く、聞こえる、掃く。同じ「掃く」という行為なのだが、前者と後者では世界が大きく異なっている。この異なりようを読者は一瞬で感じられるがゆえに、骸を素直に自然な比喩ないしは実体として受け入れることができる。わずか方数尺でしかない掃き寄せの空間に、生と死の移ろいを静かに的確にとらえてみせた腕前には唸らされた。『清水径子全句集』(2005・清水径子全句集刊行会)所収。(清水哲男)


April 1942005

 骨壺の蓋のあきゐる朧月

                           川村智香子

語は「朧月(おぼろづき)」で春。柔らかく甘く霞んだような春の月のこと。句は実景であっても、そうでなくてもよいだろう。安置された「骨壺」には、まだ逝って間もない人の骨が入っている。なぜ「蓋」があいているのかはわからない。実景だとすれば、たまたま何かの拍子にあいてしまったのが、そのままになっていたのだ。実景でないとすれば、なおこの世にとどまっている霊魂が内側からそっと押し上げたのかもしれない。いずれにしても、掲句は幻想的な春の浮き世の空間に、冷厳なる死という現実をかすかに触れ合わせることにより、読者の心胆をゆすぶることに成功している。朧月にふうわりとした情緒を感じる人も心も、やがては例外無く骨壺に入ることになるのだ。人はみな死ぬのだということを、艶なる春の宵に認識してしまった作者の心の震えもよく伝わってくる。句集のあとがきによれば、まだ若い日に義兄がたった三ヶ月の入院の後で亡くなってしまい、急に死が身近に感じられ、そのことが後の句作りへのきっかけになったとある。だから、その折りのことを思い出しての句かもしれない。では、句が実景だとして、作者はこのときに蓋をしめただろうか。私は、すぐにはしめられなかったと思う。死を身近に感じた生者は、その瞬間にほとんど死の入り口に立ったようなものだからだ。骨壺のなかにいるのが半分くらいはおのれ自身であるときに、簡単には蓋をしめられるわけがないのである。『空箱(からばこ)』(2005)所収。(清水哲男)


April 2042005

 小酒屋の皿に春行く卵かな

                           常世田長翠

語は「春行く(「行く春」「逝春」などとも)」。別の季語「暮の春」と同じ時期のことを言うが、「春行く」というと春を惜しむ詠嘆が加わる。江戸期の句。昼下がり。旅の途中で、街道沿いの「小酒屋」の縁台にでも腰を下ろして小休止している図だろう。親爺に一本つけてもらって、茹で卵を肴にちびちびとやっている。束の間の旅の楽しみ、道行く人を眺めたり、黄を散らしている周辺の山吹をあらためて眺めやったり……。そして手元の「皿」には、真っ白な卵の影がやわらかくさしている。そろそろ今年の春もおしまいだな。そんな様子と気分を、軽やかにも自然な調子で「皿に春行く」と言い止めた。読者に、何の技巧的な企みも感じさせない技巧。実に見事なものではないか。この句と作者については、俳誌「梟」(2005年4月号)ではじめて知った。作者のプロフィールを、矢島渚男の紹介文からそのまま引いておく。「常世田長翠(とこよだちょうすい・1730〜1813)は下総の国匝瑳(そうさ)郡の出身。加舎白雄第一の弟子となり、その春秋庵を継いだが三年ほどで人に譲って流浪し、晩年は出羽の国に送った。この句は酒田市光丘図書館所蔵『長翠自筆句帳』に収められている」。となれば、掲句は流浪の途次での即吟か。急ぐ旅でもないだけに、句にたしかな余裕があり腰が坐っている。(清水哲男)


April 2142005

 よく見れば薺花さく垣ねかな

                           松尾芭蕉

語は「薺(なずな)の花」。春の七草の一つで、実の形が三味線のバチに似ていることから、俗に「ぺんぺん草」あるいは「三味線草」と言うが、こちらの名前のほうがポピュラーだろう。日頃見慣れている「垣ね」に何気なく目をやったら、いつもの趣とはちょっと違うことに気がついた。何やら小さな白いものが混じっている。そこで「よく見た」ところ、薺の花だったと言うのだ。見たままそのまんまを描いているだけなので、思わず「それはわかりましたが、それがどうかしたのですか」と聞きたくなる読者もいそうである。少なくとも、かつての私はそうだった。が、よくよく繰り返し考えるうちに、この句は薺の花を発見する以前の垣根の変化への気づきを書いたのだと思えてきたのだった。つまり「よく見れば」の前の「よく見ない」状態のときに、ふっといつもとは違う風情を感じたそのことを詠んだのだと……。句に書かれていることは、その気づきが外れていなかったことの証明書みたいなものに過ぎなく、作者はむしろそれ以前の段階での感覚的な世界をこそ指さしたかったのではあるまいか。すなわち、季節の移ろいとともに微細に変化する自然に、いちはやく気づいたことへの喜びと、もう一つはむろん待ちかねた春到来の喜びとが重ねあわされているのだ。わざわざ「よく見れば」を初句に置いたのは、まだ「よく見ない」ときに感じた嬉しい心持ちの強さをあらわしているのだと思う。(清水哲男)


April 2242005

 春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり

                           西東三鬼

和十一年(1936年)の句。現代であれば、差別語云々で物議をかもすに違いない。ただし前書きに「びつことなりぬ」とあるから、自分のことも含めて言っているわけで、厳密には差別語が使用されていることにはならないだろう。現今のマスコミではあれも駄目これも駄目と非常に神経質だが、前後の脈絡などは無視して、ただ単語のみに拘泥するのはいかがなものか。意識が甘くとろけるような「春ゆふべ」、見渡せば「あまたのびつこ」がそこらじゅうを次々に「跳ね」て行き過ぎてゆく。そしてここには彼らだけが存在し、他の人は誰もいないのである。しかも「跳ね」ている人たちは嬉々としているようでもあって、ずいぶんと奇妙な幻想空間と言おうか、一種狂的なイメージの世界を描き出している。この情景に、理屈をつけて解釈できないわけではない。完璧な肉体の所有者はどこにもいないのだから、人はみな「びつこ」のようなものなのだなどと……。だが、私はそのように理に落して観賞するよりも、むしろイメージをそのまま丸呑みにしておきたい。丸呑みにすることで伝わってくるのは「春ゆふべ」の咽せるがごとき濃密な空間性であり、そのなかにどっぷりと浸されていることの自虐的な心地よさだろう。急に訪れた身体的不自由を嘆くのではなく、むしろ毒喰わば皿までと開き直れば、狂気の世界に身を沈めたくなる気持ちは奇妙でも不思議でもあるまい。詩人の橋本真理は三鬼句や生涯について「転落を"上がり"とする奇妙な双六を見るようだ」と書いているが、掲句にもよく当てはまっている。『旗』(1940)所収。(清水哲男)


April 2342005

 焼肉を食ひにあつまる朧かな

                           吉田汀史

語は「朧(おぼろ)」で春。「食ひにあつまる」「朧かな」と切るのではなく、「食ひにあつまる朧かな」とゆっくりと読み下したい。前者だと朧の宵にあつまるの意であり、実際にはそうであったかもしれないが、読み下すと「あつまること」それ自体が「朧」だということになる。むろん、両者の情感の差は大きい。私が後者と読むのは、作者の年輪を思うからだ。若い人の句であれば、あつまることがすなわち朧だという認識はまずないだろうから、切って読まざるを得なくなる。それに若者だと焼肉を食べることがあつまる大きな目的になるけれど、高齢者にはそのような意識は多く希薄だ。焼肉のためにあつまるというよりも、食べ物などは焼肉でも何でもよろしいわけで、とにかくあつまる楽しみのほうが優先するようになるのである。あくまでも、焼肉は脇役であるにすぎない。だから「朧」なのであり、この意識を拡大してゆけば、あつまる人々それぞれの人生も朧であり夢のようにも写ってくるだろう。かつての健啖家ももう多くは口にせず、あつまったメンバーの醸し出す雰囲気のほうをこそむしろ味わうというとき、ぼんやりとそれぞれの身を包む束の間の楽しさには無上のものがあると同時に無常の哀感もある。一見なんでもないような句に思えるかもしれないが、凡百の色付きの朧句よりも、よほど朧の本義に適った詠み方になっている。俳誌「航標」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


April 2442005

 ていれぎや弘法清水湧きやまず

                           吉野義子

語は「ていれぎ」で春。ただし、ほとんどの俳句歳時記には載っていない。先日実家を訪ねた折り、母と昔話をしているうちに「もう一度『ていらぎ』が食べたいねえ」という話になった。で、何か「ていらぎ」の句はないものかと調べてみたら、この句に出会った。山口県では「ていらぎ」と呼びならわしていたが、句の「ていれぎ」と同じものだ。現在でも愛媛県松山地方では「ていれぎ」と言い、松山市指定の天然記念物になっているから、ご存知の読者もおられるだろう。「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」(正岡子規)。アブラナ科の多年草で、清流に育つ美しい緑色の水草だ。正しくは大葉種付花と言うらしく、クレソンに似ているが別種である。物の本には必ず「刺身のつま」にすると書いてあるけれど、私の子供の頃には大量に穫ってきて鍋で茹で、醤油をばしゃっとかけておかずにしていた。若芽を生で噛むとほのかな辛みがあるが、茹でると抜けてしまうのか、小さい子でも食べることができた。食糧難の時代だったからか、これがまた美味いのなんのって、そこらへんの野菜の比ではなかった。まさに野趣あふれる草の味だった。そんなわけで掲句を見つけたときには、一瞬「食べたいな」と思ってしまったが、もちろん食欲とは無関係な句だ。「弘法清水」は新潟県西蒲原郡巻町竹野町にあって、弘法大師が水の乏しい良民のため地面に錫を突き立てて掘ったという伝説に基づく。行ったことはないのだが、「ていれぎ」との取り合わせでその清冽な水のありようがわかるような気がする。ああ「ていらぎ」を、もう一度。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 2542005

 暗算の指動きたる春疾風

                           横山香代子

語は「春疾風(はるはやて)」。春の強風、突風のこと。私はコンタクトをしているので、毎春のように泣かされている。目に微小なゴミが入るために、痛くて涙が出てくる。泣きたくはないのだけれど、周囲の人が見て泣いているように見えるのは、不本意だが仕方がない。格好悪い。掲句を読んだとき、もしかすると作者もコンタクトをしているのではないかと思った。そして暗算が得意な人だろうとも。結論から言えば、この句は突風に身構える句だ。その身構えが、決してやり過ごすことのできない相手に対してのように写るので、原因はコンタクトかもしれないと思った次第である。もちろん「春疾風」と「暗算」とには、何の関係もない。が、コンタクトをしていると、歩きながらでも瞬間的意識的に目を閉じることもあるわけで、その状態がかつて得意とした潜在的な暗算の世界につながったとしても不思議ではない。暗算は、目を閉じたほうが雑念が減ってやりやすい。目を閉じて、読み上げられる数字を頭の中にイメージした算盤(そろばん)に置いていく。そして、指は算盤玉を弾くように実際に動かすのである。容赦なく、まさに疾風のように読み上げられ襲いかかる数字をしのいでいたかつての経験が、なかば本能的に春の突風に対しても頭をもたげてきてしまった。他人には理解不能でも、当人にだけはよくわかるとても自然で「不自然な行為」なのだ。そのことに気がついて、思わず苦笑いをして……。そんな諧謔の句であり、局面は違っても、誰にもそうした種類の行為には覚えがあるだろうから、読者の微苦笑を誘うというわけだろう。「俳句界」(2005年5月号)所載。(清水哲男)


April 2642005

 煙草すう男に寒き春の昼

                           大井雅人

語は「春(の)昼」。のどやかで、ちょっと眠りを誘われるような春の昼だ。男が煙草をすっている。すっているのは、もしかすると作者当人かもしれない。すっている場所は、屋外でも室内でもかまわない。句の背景には、最近の声高な嫌煙権の主張があるのだと思う。愛煙家はどこに行っても、禁煙を強いられる。だからすうとなると、申し訳程度に設置された喫煙所ですわざるを得ないわけだ。なかには、その一画だけを透明なビニールのシートで覆った喫煙所さえある。中ですっていると、なんだかさらし者になっているようで、愉快ではない。が、喫煙所が建物のなかにあればまだよいほうで、ビルの裏口に灰皿一個なんてところまである。すいたい連中は、高い階からでも降りてきてすうのだが、これまた哀れな気分もいいところだ。だから「男に寒き」とは、気温の問題ではなく、そうした肩身の狭い思いを言っているのだ。暖かい春の昼ですら、たばこをすうときは「(うそ)寒い」のである。私は「キャスター・マイルド」を日に一箱くらいすうから、掲句はこう解釈するしかないのだが、何か別の解釈ができるのだろうか。それにつけても不思議に思うのは、煙草は身体に毒だという人が、車には平気で乗って所構わず排気ガスを蒔き散らしている現実だ。排気ガスは、ニコチンなどよりもよほど毒性が少ないとみえる。いまの私は、いささか不機嫌である。「俳句」(2005年5月号)所載。(清水哲男)


April 2742005

 井の底に人声のする暮春かな

                           福田甲子雄

語は「暮春(ぼしゅん)」、「暮の春」に分類。春も終わりに近いある日、「井の底に人声」がしている。井戸浚(いどさら)えをしているのだろう。俳句で「井戸浚」あるいは「井戸替」といえば夏の季語だが、実際はとくだん夏に決まったものではない。夏の季語としているのは、その昔盆の前に水をきれいにしておく習慣や行事があったからだ。七夕の日が多かったようである。井戸の水を干して、底に溜まった塵芥を人の手でさらう。その人の声がときおり地上に聞こえてくるわけだが、あれはなんとも不思議な気がするものだ。私も、子供の頃に何度か体験した。ふだんは聞こえてこない地の底からの声であり、それが細い筒状の井戸に反響して上がってくるので、少しく浮世離れした感じがするのである。といっても決して不気味なのではなく、むしろのんびりした長閑な声とでも言うべきか。それが往く春の風情に無理なく溶け込んできて、おそらく作者はこのとき微笑を浮かべていたに違いない。ご存知の方も多いだろうが、作者は一昨日(2005年4月25日)未明に亡くなられた。享年七十七。俳人には長命の方が多いので、なんだかとてもお若く思われてしまう。つつしんでお悔やみ申し上げます。合掌。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


April 2842005

 たんぽぽに普通列車の速さかな

                           奥坂まや

語は「たんぽぽ(蒲公英)」で春。福知山線での大事故の後だけに、余計に沁みいってくる句だ。二通りに解釈できると思う。作者が電車に乗っている場合と、通過する電車を眺めている場合と。乗っているのであれば、いわゆる「鈍行」ゆえの気楽さと楽しさが読み取れる。ローカル線であれば、なおさらだ。見るともなく窓外を見やっていると、線路沿いに点々と黄色い花が咲いているのに気がついた。「ああ、たんぽぽだ。春だなあ」。そう感じただけで、心が温かくなってくる。乗っていない場合には、たんぽぽを近景にして、遠くをゆっくりと行く電車を眺めている。いかにも牧歌的というのか田園的というのか、ちょっと谷内六郎の世界に通じていくような眺めだ。私は後者と取りたいけれど、読者諸兄姉は如何。いずれにしても、たんぽぽに猛スピードは似合わない。一面に咲き乱れている菜の花あたりだと、新幹線のスピードでも似合いそうな気もするが、たんぽぽは黄色いといっても小さくて地味な花なので、あまりのスピードだと視界から省略されかねないからだ。したがって、句の手柄は「速さかな」の止めにあるだろう。「速さ」という言葉は抽象的でありながら、しかし句では逆に具体として読者に印象づけられるのである。なかなかの技巧の冴え。実作する方なら、おわかりになるだろう。『縄文』(2005)所収。(清水哲男)


April 2942005

 千代田区の柳は無聊みどりの日

                           大畠新草

語は「みどりの日」。東京都千代田区は、お隣りの中央区と並んで定住者が少ない。夜間の人口は激減する。「昭和35年の12万人(住民基本台帳人口)をピークに区の人口は減り続け、平成11年1月には3万9千567人となっています。人口の減少により、地域のコミュニティが衰退し、生活関連の商店が減少するなど、区民生活に大きな影響を与えています」(千代田区ホームページ)。戦後いちはやく麹町区と神田区が合併してできた区だが、焼け野原だった当時の人口が3万人ほどだったそうだから、ほぼそのレベルに戻ってしまったわけだ。したがって、平日はビジネスマンなどでにぎわう街も、休祝日にはさながらゴーストタウンと化してしまう。私は皇居半蔵門前の放送局で働いていたので、この言い方は誇張ではない。食堂なども店を休んでしまうので、ホテルのレストランで高いランチを食べなければならなかった。掲句はそんな祝日の千代田区を詠んでいて、私などには大いに腑に落ちる。「みどりの日」というのに、せっかく青々としている「柳」も「無聊(ぶりょう)」のふうだ。みずみずしいはずの街路の柳も、なんとなくだらりと垂れ下がっているだけのような……。今日は昭和の時代には天皇誕生日だったので、千代田区千代田1-1というアドレスを持つ皇居の溢れんばかりの「みどり」も、句の背景に滲んで見える。昭和も遠くなりにけり。この句には、ちらりとそんな隠し味が仕込まれていると読んだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


April 3042005

 妹の嫁ぎて四月永かりき

                           中村草田男

年度ということもあって、「四月」という月は活気もあるがあわただしくもある。一般的な認識として、四月は短いと感じるのが普通だろう。だがこれに個人的な事情が加わると、いつもの四月とは違って、掲句のように永く感じる人も出てくる。妹が嫁いだ。いつも側にいた人がいなくなった。めでたいことではあるけれど、予想していた以上の喪失感を覚えて、作者は少しく滅入ってしまったのだ。それに昔のことだから、これからはそう簡単に妹と会うことはできない。何かにつけて、ふっと妹を思い出し、淡い寂しさを感じる日々がつづいた。この句には、兄という立場ならではの寂寥感がある。というのも、妹の結婚準備の段階からして、両親ほどにはしてやることもない。手をこまねいているうちに、自分以外の者の手でどんどん段取りは進められ、ろくに妹と話す機会もないうちに挙式となり、気がつけば傍らから消えてしまった。そういう立場なので仕方がないとはいえ、妹の結婚に実質的には何も関与していない自分であるがゆえに、どこか取り残されたような気持ちにもなっている。永い四月だったなあと嘆息するのも、よくわかるような気がする。さて、今年の四月も今日でおしまいですね。読者諸兄姉にとっては、どうだったでしょうか。私には例年通り、やはり短く感じられた四月でありました。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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