都立大学などが廃止され「首都大学東京」が誕生。詩人・瀬尾育生教授の名も見えるが。




2005ソスN4ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0242005

 苗代に鴉を吊し出稼ぎへ

                           小菅白藤

語は「苗代(なわしろ)」で春。いまでは稲の苗は育苗箱で育てられるが、昔は小さく区切った田に種もみを蒔いて育てた。田園地帯のそこここに早緑色の苗が育つ様子は、美しいものだった。句のような光景は見たことはないけれど、「鴉」のむくろを吊るしておくのは害鳥対策なのだろう。効果があるのかないのか、しかし「出稼ぎ」で留守をする身にしてみれば、そんなことは言っていられない。家にとどまっていればちょくちょく見回りもできるが、それがかなわないのだから、気休めであろうとも何か対策をこうじて置かなければ不安なのである。作者が出稼ぎに出た後に、だらりと吊るされて腐食していく鴉の様子までがうかがわれて、切なくなる。作者の苗代のみならず、あちらにもこちらにも……。稲作農家にとって、現金収入への道は乏しい。年に一度の収穫物を売ってしまったら、まとまった収入を得る手段はないからである。昔はそれでも、ある程度の田圃を持っていればやっていけたのが、高度成長期に入ったあたりから、農村でも現金がないと暮らしが立ち行かなくなってきた。自給自足をしようにも、農業の効率化機械化が奨励され、そのための元手に手持ちの現金では足りるはずもない。多くの農民が借金に苦しみ、不本意な出稼ぎへと追い立てられていったのだった。山口の中学時代の友人たちは、ほとんどが山陽新幹線の土台作りにたずさわったという。たまに乗るだけだが、乗るたびにそのことを思い出して、なんだか息苦しくなってしまう。『現代俳句歳時記・春』(2004)所載。(清水哲男)


April 0142005

 呑むために酒呑まない日四月馬鹿

                           的野 雄

語は「四月馬鹿」で春。四月一日は嘘をついても許される日ということになっているが、その嘘もだまされた人のことも「四月馬鹿」と言う。掲句はちょっと本義からは飛躍していて、自嘲気味にみずからの「馬鹿」さ加減に力点が置かれている。「酒呑まない日」とはいわゆる休肝日で、必死で禁酒しているわけだが、考えてみれば、これはまた明日から「呑むため」の必死なのだ。アホらしくもあり滑稽でもあり、というところだろう。常飲者でない人からすれば不可解な必死だろうが、当人にしてみれば真剣な刻苦以外のなにものでもないのである。友人にも必ず週に一日は呑まない日を設定している飲み助がいるので、そのしんどさはよく話に聞く。聞くも涙の物語だ。ところで、この季語「四月馬鹿」については苦い思い出がある。数年前にスウェーデンと日本との合同句集を作ろうという企画があり、日本側の選句を担当した。で、四月馬鹿の句には、できるだけバカバカしくて可笑しい句を選んだ。だが、他の選句には何の異論も出なかったものの、この一句のみには先方から同意できないとクレームがついてしまった。理由は明快。スウェーデンでは、四月馬鹿は敬虔な日なのであって、決して笑いふざけるような日ではないからというものだった。合同句集のタイトルが『四月の雪』とつけられたことでもわかるように、彼の地の冬は長い。その暗鬱な季節からようやく解放される予兆をはらんだ四月馬鹿の日。ふざけるよりも、季節の巡りに頭を垂れたくなるほうが自然だろう。私なりにそう納得して、選句は撤回したのだったが……。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


March 3132005

 春や一億蝋人形の含み針

                           豊口陽子

が、どこで切れているのか。しばし迷った。大宅壮一の「一億総白痴化」じゃないけれど、最初は「一億蝋人形」(化)するのかとも考えた。でも、そう読むと、あまりにも構図が単純になってしまい、しかも押し付けがましくなる。私もあなたも「蝋人形」というわけで、決めつけが強引に過ぎるからだ。で、素直に「春や一億」で切ってみた。そうすると、一億の民みんなに春が訪れたと受け取れ,ほとんど「春や春」と同義になる。情景がぱっと明るくなり,蝋人形とのコントラストが鮮明になる。「含み針」は、口に含んだ短い針を敵に吹きつけて攻撃する一種の飛び道具だ。実際に使われたものかどうかは知らないが,時代物の小説などにはよく出てくる。作者は「春や一億」の明るいイメージは、つまるところ表層的なそれに過ぎず,その深層には正体不明の蝋人形がいて、それも含み針を口中に,一億の能天気に一針お見舞いすべく隙をうかがっていると詠んでいる。この、言い知れぬ不安……。蝋人形は不気味だ。どんなに明るい表情に作られていても,その一瞬の表情や仕草が永久に固定されていることから、本物の人間との差異が強調されてしまうからだ。身体的にも精神的にも,およそ運動というものがないのである。いま思い出したが,西條八十が若い頃、空に浮かんだ蝋人形の詩を書いている。八十は不気味にではなく,耽美的に蝋人形をとらえているのだが、私などにはやはり病的な不気味さばかりが印象づけられた世界であった。『薮姫』(2005)所収。(清水哲男)




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