]句

April 0642005

 寝たきりの目を閉じて泣く桜挿せば

                           望月たけし

誌「俳句人」(2005年4月号)のコラムで知った句。「寝たきり」になった父親(と、工藤博司の紹介文にある)に、もう例年のような花見はかなわない。そこでせめてもと思い、作者は花をつけた枝を折りとってきて、花瓶に挿して見せた。父親はしばし凝視していたが、急に「目を閉じ」たかと思うと、声を押し殺して「泣き」はじめたというのである。頬に伝う涙を認めてわかったのだが、しかし作者はそれを正視しつづけることはできなかったろう。おそらくは、はじめて見た父親の涙だ。この涙には、老いた我が身への口惜しさと息子の優しい思いやりへの感謝の念とが入り混ざっている。だからこのときの桜は、単なる花ではありえない。単なる花を越えた、いわば「世間」というものである。私たちの通常の花見にしたところで、たしかに花を見に行くのではあるけれど、花を媒介にして実は世間との触れ合いを楽しむためだと言ってよい。「寝たきり」の人は世間から不本意にも置き去りにされているわけだから、とりわけてそういうことには敏感になるはずだ。そんな孤独な心の枕辺に、華やかに挿された世間としての桜花なのである。誰が泣かずにいられようか……。老いの実相を鮮やかに提出した名句だと思う。『新俳句人連盟創立四五周年記念アンソロジー』(1991)所収。(清水哲男)


April 1342009

 ぴいぴい昭和のテレホンカード鳥雲に

                           望月たけし

衆電話をかけている。「ぴいぴい」は、むろんテレホンカードの出し入れの際に鳴る機械音だ。この音を鳥の鳴き声にかけてあるのかとも思ったが、いささか無理がある。それよりも、人が電話をかけるときの視線に注目した。ダイヤルや文字盤に電話番号を登録してから相手が出る迄のわずかな時間、たいていの人は所在なげに上方を見上げて待つ。この間、ダイヤルを睨んだままで待つ人は少ないだろう。作者も何気なく空を見上げたところ、偶然にも北に帰って行く鳥影が見えたのである。ここでごく自然に、作者と空とが結びつく。ああ、もうそんな季節なのか。束の間、去り行くものへの愛惜の念が胸をよぎる。そう言えば、このテレホンカードも去って行った昭和のものだ。電話をかけ終わると、また「ぴいぴい」とカードが鳴いた。機械的な音だけれど、それが今はなんだかいとおしいような感じを受ける。そこで作者はもう一度、はるかな空を見上げたに違いない。何気ない現代の日常的な行為を巧みに捉えた、去り行くものへの挽歌である。「ぴいぴい」が実に良く効いている。一読、後を引く。これが「現代俳句」というものだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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