April 102005
昼からは茶屋が素湯売桜かな
僕 言
句として良いとか悪いとか言うのではなく、詠まれている情景に惹かれる句がままある。掲句も、その一つだ。元禄期の句。作者はまさか後世に読まれるだろうことなどは毛頭思わず、ただ同時代人へのレポートとして詠んだわけだが、三百年を経てみると、その時代の興味深い記録的な価値を持つにいたった。花見の名所に小屋掛けの茶店が出て、抹茶を点(た)てて売っている。午前中はそのようにちゃんと営業していたのだけれど、「昼から」になるとどんどん人が繰り出してきて、一人ひとりにきちんと応接できなくなってしまった。で、いささか乱暴な商売になってきて、茶抜きの「素湯(さゆ)」を売り出したというのである。水をわかしただけの単なる湯だ。それでも喉のかわいた人たちが、次から次へと文句も言わずに買って飲んでいる。桜見物のにぎわいを茶店の商品から描き出す着想は、当時としては斬新だったのだろう。この句の情景を現代風にアレンジすると、よく冷えた清涼飲料水やビールなどが売り切れてしまい、生温いものを売っているそれに似ている。「ま、この人出じゃあ仕方がないな」と、私などもつい買ってしまう。では、現代のこの様子を五七五にどうまとめるべきか。しばらく考えてみたが、よい知恵がうかばなかった。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男) [作者名について]「僕言」の「僕」は、正しくはニンベンを省いた「ぼく」の字です。ワープロに無いので、やむを得ず……。
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