April 112005
花の雨やがて雨音たてにけり
成瀬櫻桃子
季語は「花の雨」で春、「花」の項に分類。桜の花どきに降る冷え冷えとした雨のこと。「花散らしの雨」と言ったりする。桜の花に直接降る雨としてもよいし、べつに桜が眼前に無くてもよい。掲句は、後者の雨だろう。室内にいて、雨の降りはじめたことに気づいた。ちょうど桜の咲いている時期だと、まず気になるのは雨のせいで大量に散ってしまうのではないかということだ。もとよりそんなに深刻な問題ではないけれど、できれば小雨程度ですんでほしいと願うのが人情である。だが、願いもむなしく、「やがて雨音たて」て降りはじめた。ああ、これでもう今年の花もおしまいか……。と、軽い失望感が胸中をよぎったのだ。この感情もまた、春ならではの心持ちと言える。ところで、今日は全国的に雨模様だ。文字どおりに「花散らしの雨」となってしまう地方も多いだろう。そんななかで「雨に重き花のいのちを保ちけり」(八幡城太郎)と、けなげな花を目にできたら嬉しいだろうな。現代俳句文庫19『成瀬櫻桃子句集』(1994・ふらんす堂)所収。(清水哲男)
April 102005
昼からは茶屋が素湯売桜かな
僕 言
句として良いとか悪いとか言うのではなく、詠まれている情景に惹かれる句がままある。掲句も、その一つだ。元禄期の句。作者はまさか後世に読まれるだろうことなどは毛頭思わず、ただ同時代人へのレポートとして詠んだわけだが、三百年を経てみると、その時代の興味深い記録的な価値を持つにいたった。花見の名所に小屋掛けの茶店が出て、抹茶を点(た)てて売っている。午前中はそのようにちゃんと営業していたのだけれど、「昼から」になるとどんどん人が繰り出してきて、一人ひとりにきちんと応接できなくなってしまった。で、いささか乱暴な商売になってきて、茶抜きの「素湯(さゆ)」を売り出したというのである。水をわかしただけの単なる湯だ。それでも喉のかわいた人たちが、次から次へと文句も言わずに買って飲んでいる。桜見物のにぎわいを茶店の商品から描き出す着想は、当時としては斬新だったのだろう。この句の情景を現代風にアレンジすると、よく冷えた清涼飲料水やビールなどが売り切れてしまい、生温いものを売っているそれに似ている。「ま、この人出じゃあ仕方がないな」と、私などもつい買ってしまう。では、現代のこの様子を五七五にどうまとめるべきか。しばらく考えてみたが、よい知恵がうかばなかった。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男) [作者名について]「僕言」の「僕」は、正しくはニンベンを省いた「ぼく」の字です。ワープロに無いので、やむを得ず……。
句として良いとか悪いとか言うのではなく、詠まれている情景に惹かれる句がままある。掲句も、その一つだ。元禄期の句。作者はまさか後世に読まれるだろうことなどは毛頭思わず、ただ同時代人へのレポートとして詠んだわけだが、三百年を経てみると、その時代の興味深い記録的な価値を持つにいたった。花見の名所に小屋掛けの茶店が出て、抹茶を点(た)てて売っている。午前中はそのようにちゃんと営業していたのだけれど、「昼から」になるとどんどん人が繰り出してきて、一人ひとりにきちんと応接できなくなってしまった。で、いささか乱暴な商売になってきて、茶抜きの「素湯(さゆ)」を売り出したというのである。水をわかしただけの単なる湯だ。それでも喉のかわいた人たちが、次から次へと文句も言わずに買って飲んでいる。桜見物のにぎわいを茶店の商品から描き出す着想は、当時としては斬新だったのだろう。この句の情景を現代風にアレンジすると、よく冷えた清涼飲料水やビールなどが売り切れてしまい、生温いものを売っているそれに似ている。「ま、この人出じゃあ仕方がないな」と、私などもつい買ってしまう。では、現代のこの様子を五七五にどうまとめるべきか。しばらく考えてみたが、よい知恵がうかばなかった。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男) [作者名について]「僕言」の「僕」は、正しくはニンベンを省いた「ぼく」の字です。ワープロに無いので、やむを得ず……。
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