今日は「パンの日」。いろいろ食べてはきたけれど、やっぱり食パンがいちばんですな。




2005ソスN4ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1242005

 ごくだうが帰りて畑をうちこくる

                           小松月尚

語は「畑打(つ)」で春。「ごくだう」は「極道」だが、この場合は「極道息子」くらいの意味だろう。ぷいっと遊びにいったきり、何日も戻らないこともしばしばだ。近所でもなにかと噂の、他家の不良青年である。それがいつ舞い戻ってきたのか、今日は畑に出て神妙に耕している姿を見かけた。「うちこくる」は方言だろうか。私にはいまひとつ理解しにくい言葉だが、「こくる」の勢いからして、懸命に耕している様子に近いニュアンスではないかと思う。すなわち、彼の耕している姿からすると、もうすっかり心を入れ替えましたと言わんばかりの働きぶりなのだ。でも、この句は「ごくだう」が真面目になってよかった、これでいままでのことは帳消しになるなどと言っているのではあるまい。彼が黙々と「うちこく」れば「うちこくる」ほどに、いつまで続くだろうかという猜疑の心が頭をもたげてくるのである。あんなに急に入れ込んでは、長続きはしそうもないなと読んでいる。そう思うのは、べつに意地悪からではない。私の田舎では、そんな人間のことを「このへんの風(ふう)に合わない」と言っていた。狭い村落共同体の生活を嫌って一度でも飛び出した者は、なかなか元には戻れないものなのだ。そんな若い衆が何人か、私の周辺にもいた。たしかに彼らは村の風とは異なる雰囲気を持っていたし、実家とはすったもんだを繰り返していたようだ。「ごくだう」ではなく「げど(外道)されめ」とののしられつつ、やはり同じように「うちこく」っていた彼らの姿を懐かしく思い出す。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 1142005

 花の雨やがて雨音たてにけり

                           成瀬櫻桃子

語は「花の雨」で春、「花」の項に分類。桜の花どきに降る冷え冷えとした雨のこと。「花散らしの雨」と言ったりする。桜の花に直接降る雨としてもよいし、べつに桜が眼前に無くてもよい。掲句は、後者の雨だろう。室内にいて、雨の降りはじめたことに気づいた。ちょうど桜の咲いている時期だと、まず気になるのは雨のせいで大量に散ってしまうのではないかということだ。もとよりそんなに深刻な問題ではないけれど、できれば小雨程度ですんでほしいと願うのが人情である。だが、願いもむなしく、「やがて雨音たて」て降りはじめた。ああ、これでもう今年の花もおしまいか……。と、軽い失望感が胸中をよぎったのだ。この感情もまた、春ならではの心持ちと言える。ところで、今日は全国的に雨模様だ。文字どおりに「花散らしの雨」となってしまう地方も多いだろう。そんななかで「雨に重き花のいのちを保ちけり」(八幡城太郎)と、けなげな花を目にできたら嬉しいだろうな。現代俳句文庫19『成瀬櫻桃子句集』(1994・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


April 1042005

 昼からは茶屋が素湯売桜かな

                           僕 言

として良いとか悪いとか言うのではなく、詠まれている情景に惹かれる句がままある。掲句も、その一つだ。元禄期の句。作者はまさか後世に読まれるだろうことなどは毛頭思わず、ただ同時代人へのレポートとして詠んだわけだが、三百年を経てみると、その時代の興味深い記録的な価値を持つにいたった。花見の名所に小屋掛けの茶店が出て、抹茶を点(た)てて売っている。午前中はそのようにちゃんと営業していたのだけれど、「昼から」になるとどんどん人が繰り出してきて、一人ひとりにきちんと応接できなくなってしまった。で、いささか乱暴な商売になってきて、茶抜きの「素湯(さゆ)」を売り出したというのである。水をわかしただけの単なる湯だ。それでも喉のかわいた人たちが、次から次へと文句も言わずに買って飲んでいる。桜見物のにぎわいを茶店の商品から描き出す着想は、当時としては斬新だったのだろう。この句の情景を現代風にアレンジすると、よく冷えた清涼飲料水やビールなどが売り切れてしまい、生温いものを売っているそれに似ている。「ま、この人出じゃあ仕方がないな」と、私などもつい買ってしまう。では、現代のこの様子を五七五にどうまとめるべきか。しばらく考えてみたが、よい知恵がうかばなかった。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)

[作者名について]「僕言」の「僕」は、正しくはニンベンを省いた「ぼく」の字です。ワープロに無いので、やむを得ず……。




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