衆院憲法調査会最終報告書議決。とりあえず自衛隊の存在を明記すればよいという中味。




2005ソスN4ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1642005

 野に出でよ見わたすかぎり春の風

                           辻貨物船

語は「春の風」。句意は明瞭だから、解説の必要はないだろう。気持ちのよい句だ。こういう句を読むにつけ、つくづく作者(詩人・辻征夫)は都会っ子だったのだなあと思う。幼い頃に短期間三宅島に暮らしたことはあるそうだが、まあ根っからの下町っ子と言ってよい雰囲気を持っていた。私の交遊範囲で、彼ほどの浅草好きは他には見当たらない。掲句の「野に出でよ」は「野に出て遊ぼうよ」の意だから、私のような田舎育ちには意味はわかっても、素直には口に出せないようなところがある。野に暮らして野に出るといえば、どうしても野で働くほうのイメージが勝ってしまうからだ。島崎藤村の詩「朝」のように、野はぴったりと労働に貼り付いていた。「野に出でよ 野に出でよ/稲の穂は黄に実りたり/草鞋(わらじ)とくゆえ 鎌を取れ/風にいななく 馬もやれ」と、こんな具合にだ。逆に、かつて寺山修司がアンドレ・ジッドの口まねをして「書を捨てて、街に出よう」と言ったときには、わかるなあと思った。こちらは、どう考えても田舎育ちの発想である。すさまじいまでの街への憧れを一度も抱いたことのない者には、それこそ意味は理解できるとしても、心の奥底のほうでは遂にぴったりと来ないのではなかろうか。育った環境とは、まことに雄弁なものである。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


April 1542005

 美しき人は化粧はず春深し

                           星野立子

語は「春深し」。桜も散って、春の艶も極まったころ。句は、真の美人は化粧しないものだなどと、小癪なことを言っているのではない。私は、この「美しき人」に年輪を感じる。どこにもそんなことは書いてないけれど、季語「春深し」との取り合わせから、そう受け取れるのである。「化粧はず」は「けわわず」だ。もはや若いときのように妍を競う欲からも離れ、容貌への生臭いうぬぼれや憧れもない。かといって枯れてしまったのではなく、また俗に言う可愛いおばあちゃんでもなく、おのれ自身の春が極まったとでも言おうか、自然体としての身体がそのままで美しくある「人」に、作者は好感している。いや、羨望の念すら抱いている。この人には、女性「性」のまったき円熟が感じられ、静やかな艶がおのずと滲み出ているのだ。すなわち、それが「春深し」の季節の極まりに深く照応しているのであって、この季語は動かし難い。そしてまた、「深し」すなわち極まりとは早晩過ぎ行くことの兆しをはらんでいるから、句はその兆しをも匂わせていて、ますます艶やかである。書かれたもので読んだのか、直接聞いたのだったかは忘れたが、埴谷雄高が「女は七十代くらいがいちばん良い」という意味のことを述べたことがある。逆説でも、ましてや珍説でもないだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1442005

 玉浮子を引き込むものもこの世なり

                           つぶやく堂やんま

季句。作者は釣りをよくする人のようだが、こういう句は頭の中で作れそうでいて、そう簡単にはいかないだろう。やはり、実際に何度となく釣った経験のなかから、生まれるべくして生まれた思いなのだ。というのも、傍目で釣りを見ている人には、ぐぐっと浮子(うき)が引き込まれたときに、「やった」という思いくらいしか湧いてこないからだ。釣り人にもむろん「やった」の思いはあるけれど、しかし傍目の人とは違って、釣る人には「やった」の前のプロセスがある。いっかな引き込まれない浮子を辛抱強く見つめているのもその一つであり、むしろかかった瞬間よりも、その間のことを釣りと言ってもよいくらいだ。このときに浮子は、水面下の世界とのいわば対話の道具となる。釣り人は全神経を集中して浮子をみつめ、水の中で何が起きるのか、あるいは起こらないのかを知ろうとする。そうしているうちにだんだんと、傍目の人には別世界でしかない水中が、親和的な「この世」のように溶け込んでくる感じになる。そして突然、ぐぐっと浮子が引き込まれたとき、引き込んだ魚はまさに「この世」の手応えを伝えるのであり、それは「この世」そのものが引いたと同義に近くなっている。すなわち、「この世」が「この世」を引き込むのだ。カラフルで可愛らしい「玉浮子」だけに、クライマックスの怖いほどの思いが強く印象づけられる。『つぶやっ句・ぼんやりと』(1998・私家版)所収。(清水哲男)




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