April 272005
井の底に人声のする暮春かな
福田甲子雄
季語は「暮春(ぼしゅん)」、「暮の春」に分類。春も終わりに近いある日、「井の底に人声」がしている。井戸浚(いどさら)えをしているのだろう。俳句で「井戸浚」あるいは「井戸替」といえば夏の季語だが、実際はとくだん夏に決まったものではない。夏の季語としているのは、その昔盆の前に水をきれいにしておく習慣や行事があったからだ。七夕の日が多かったようである。井戸の水を干して、底に溜まった塵芥を人の手でさらう。その人の声がときおり地上に聞こえてくるわけだが、あれはなんとも不思議な気がするものだ。私も、子供の頃に何度か体験した。ふだんは聞こえてこない地の底からの声であり、それが細い筒状の井戸に反響して上がってくるので、少しく浮世離れした感じがするのである。といっても決して不気味なのではなく、むしろのんびりした長閑な声とでも言うべきか。それが往く春の風情に無理なく溶け込んできて、おそらく作者はこのとき微笑を浮かべていたに違いない。ご存知の方も多いだろうが、作者は一昨日(2005年4月25日)未明に亡くなられた。享年七十七。俳人には長命の方が多いので、なんだかとてもお若く思われてしまう。つつしんでお悔やみ申し上げます。合掌。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)
April 032009
暮春おのが解剖体を頭に描くも
目迫秩父
俳号「めさくちちぶ」と読む。春の暮の明るさと暖かさの中で、おのれの解剖される姿を思い描いている。宿痾の結核に苦しみ昭和三十八年に喀血による窒息死で四十六歳で死去。組合活動で首切りにあうなど、常に生活苦とも戦った。こういう句を読むと、今の俳句全体の風景とのあまりの違いに驚かされる。文体は無条件に昔の鋳型をとっかえひっかえし、季語の本意本情を錦の御旗にして類型、類想はおかまいなし。若い俳人たちは、「真実」だの「自己」だのは古いテーマと言い放ったあげくコミックなノリにいくか、若年寄のような通ぶった「俳諧」に行くか。自分の句を棚に上げてそんな愚痴をいうと、ぽんと肩を叩かれて「汗も涙も飢えも労働も病も、もう昔みたいに切実感を失ってテーマにはならないんだよ」そうかなあ、どんな時代にも、ただ一回の生を生きる「私」は普遍的命題。いな、普遍的なものはそれだけしかないのではないか。この句の内容はもとより、上句に字余りを持ってきた文体ひとつにしてもオリジナルな「私」への強烈な意識が働いていることを見逃してはならない。『雪無限』(1956)所収。(今井 聖)
June 032016
葭切や葭まつさをに道隠す
村上鞆彦
葭切、特にオオヨシキリは夏場九州以北の低地から山地のヨシ原に渡来し、海岸や河口の広いヨシ原では多く見られる。おすは葭の茎に体を立ててとまり、ギョッギヨッシ、ギョッギヨッシと騒がしく囀る。その鳴き声から行行子(ぎょうぎょうし)の別名がある。ふと命の出し惜しみをして生きている吾身を反省する。最後に精一杯叫んだのは何時の事か記憶にない。甲高い鳴き声に一歩葭原に踏み入れてみても道は隠され、茂みの深さの為に中々営巣には近付けない。ただまつさをな葭原の只中に耳を聳てて聞き入るばかりである。因みにコヨシキリは丈の高い草原にすみ細い声で囀る。他に<花の上に押し寄せてゐる夜空かな><投げ出して足遠くある暮春かな><枯蟷螂人間をなつかしく見る>などあり。「俳句」(2013年8月号)所載。(藤嶋 務)
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