May 042005
屋根裏に吊す玉葱修司の忌大倉郁子忌日を季語とすることに、私はあまり積極的じゃない。よほど有名な人の亡くなった日でも、故人の縁者や友人などならいざ知らず、季節がいつだったかを覚えているのは難しいからだ。急に誰それの忌と句で示されても、読者に季節がわからなければ価値は半減してしまう。「(寺山)修司」が亡くなったのは、1983年の今日のことだった。もう二十年以上もの歳月が過ぎているわけで、ファンや私のような友人知己は別にして、一般的には死去した季節を知らないほうが普通なのではあるまいか。だから、それでもなお忌日を使いたいという場合には、掲句のように他に季節を指し示す言葉で補完するのが妥当だと思う。俳句で「玉葱」は夏の季語だが、今頃はちょうど新玉葱の収穫期だから「修司の忌」にぴったりだ。そしておそらく、この句は寺山の短歌「吊るされて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフを初めて読みき」を踏まえている。したがって、句の「玉葱」も芽ぐみつつあるのだ。吊るした玉葱は気温との関係で発芽することがあり、収穫農家にはドジな話なのだが、寺山にとっては眠れるものの覚醒であり、句の作者にとっては死者のひそやかな復活を意味している。そう読むと、なかなかに良く出来た抒情句だ。ところで振り出しに戻って、句の季語はどうしようか。「玉葱」か「修司の忌」か。小一時間ほど悩んだ末に、寺山さんとのあれこれが思い出されてきて切なくなり、あえて節を曲げることにした。季語は「修司忌」で春です。明日が立夏。『対岸の花』(2002)所収。(清水哲男) May 032005 春深し隣りは鯛飯食ひ始む清水基吉前書に「車中」とある。隣りにいるのは、たまたま乗り合わせた見知らぬ人である。発車後間もないのか、あるいはまだ飯時ではないのか。でも、その人はひとり悠々と「鯛飯」弁当を食べはじめた。まことにもって「春深し」の候、作者は窓外を流れる新緑を眺めながら微笑している。ざっくりと読むならば、こういうことだろう。だが、人にもよるのだろうが、私などは隣りの人の食事にはちょっと神経を使わせられる。ちらちら目をやるわけにもいかないし、できるだけ無関心を装わねば失礼なような気もするので、身じろぎもせずに窓の外を見やったり、眠ったふりでもすることになる。自分が弁当を持っている場合にはもっと複雑で、こちらも食べればよいものを、それでは隣りにつられて真似したようで、釈然としない。しかも相手は高価な「鯛飯」、こちらはスタンダードな幕の内だったりすると、それだけで一種気後れもするから、ますます開けなくなる。仮にこの逆であるとしても、同じことだ。とにかく、まったく無関心というわけにいかないのには困ってしまう。神経質に過ぎるだろうか。これはもしかすると昔の教室で、みんなが弁当を隠しながら食べた世代に特有の感じ方なのかもしれないと思ったりもしているのだが……。ゆったりと句を味わえばよいものを、つい余計なことを書いてしまった。ごめんなさい。俳誌「日矢」(2005年5月号)所載。(清水哲男) May 022005 田植ぐみ子が一人ゐて揺りゐたり若色如月季
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