@句

May 0952005

 美しき人の帯せぬ牡丹かな

                           李 千

語は「牡丹(ぼたん)」で夏。柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に出ている元禄期の句だ。えっ、なんだい、これはっ。と、一瞬絶句。牡丹と美人との取り合わせは良いとしても、選りにも選ってしどけなくも帯をしていない女を立たせるとは。いわゆる狂女かしらんと想像をめぐらして、なんだか不気味な句だと思ったら、そうではなかった。宵曲曰く、「こういう句法は今の人たちには多少耳遠い感じがするかも知れないが、この場合強いて目前の景色にしようとして、帯せぬ美人をそこに立たせたりしたら、牡丹の趣は減殺されるにきまっている。句を解するにはどうしてもその時代の心持ちを顧慮しなければならぬ」。なるほど。となれば、現代の句は「今」の時代の心持ちを顧慮して読まなければならないわけだが、その前に「今」の俳句が「今」の心持ちを詠んでいるのかどうかが大いに気になる。「今」の時代というよりも、「今」の俳壇の心持ちで詠まれている句が多すぎないか。おっと、脱線。したがって、掲句の帯せぬ美人とは、すなわち牡丹の艶麗な様子を言ったものである。「立てば芍薬、坐れば牡丹」と言い古されてきたが、元禄期の心持ちでは牡丹は美人の立ち姿だったことになる。当然のことながら、美人の尺度もその時代の心持ちによって決められるのだから、この帯せぬ人の体型は、「今」の美人のそれとは大いに異なっていたのだろう。(清水哲男)




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