このところの東京は五月とは思えない気温の低さ。とくに早朝は手がかじかむことも…。




2005ソスN5ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1852005

 無職は無色に似て泉辺に影失う

                           原子公平

語は「泉」で夏。作者は出版社勤務(戦前は岩波書店、戦後は小学館)の長かった人だから、停年退職後の感慨だろう。「無職」と「無色」は語呂合わせ的発想だが、言われてみれば通じ合うものがある。社会通念としては、定年後の無職は常態であるとはいうものの、当人にしてみればいきなり社会の枠組みから外に出されたようなものなので、虚脱感や喪失感は大きい。ひいてはそれが己の存在感の稀薄さにもつながっていき、軽いめまいを覚えたときのように一瞬頭が白くなって、好天下「泉辺」にあるべきはずの自分の影すらも(見)失ってしまったと言うのである。むろんこれは心境の一種の比喩として詠まれてはいるのだろうが、しかし同時に、ある日あるときの実感でもあったろうと読める。作者とはだいぶ事情が違うのだけれど、私は二十代のときにたてつづけに三度失職した。いずれも会社都合によるものだったとはいえ、無職は無職なのであって、その頼りなさといったらなかった。若かったので「そのうちに何とかなるさ」と思う気持ちと、どんどん減ってゆく退職金に悲観的になってゆく気持ちとが絡み合い、それこそ頭が真っ白になってしまいそうで辛かった。社会や世間の枠組みから外れることが、どんなことなのかを思い知らされた者として掲句を読むと、何かひりひりと灼けつくような疼きを覚える。このときの作者には、停年まできちんと勤め上げたキャリアとは無関係に、無職の現実が重くのしかかっていたのだと思う。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


May 1752005

 敗れたりきのふ残せしビール飲む

                           山口青邨

語は「ビール(麦酒)」で夏。とはいえ、いまでは一年中飲まれていて、季節感も薄れてきた。だが、この句はやはり昔の夏のものだろう。いつごろの句かは不明だが、とりあえず飲み残したビールを保存しておくのは、ビールがまだかなり高価だった時代を物語っているからだ。作者は、何に「敗れた」のか。わからないけれど、「敗れたり」の「たり」に着目すると、ある程度の勝算があったにもかかわらず、結果は負けてしまったということだと推察できる。したがって情けなくも口惜しくて、勝てば新しいビールの栓を抜いたところなのに、気の抜けた飲み残し分を飲んでいる。意気消沈の気分が、不味いビールで余計に増幅されてきて、暗くみじめである。ビールの句には美味そうなものが多いなかで、不味い味とは珍しい。アルコール類の味は、飲むときの気分によってかなり左右されるということだ。飲まない人からすれば、そんなときには飲まなければよいのにと思うだろうが、勝ったといっては飲み、負けてもまた飲むのが飲み助の性(さが)みたいなもので、こればかりはなおらない。敗戦後の一時期には、失明の危険を承知しながらメチールを飲んだ多数の人たちがいたことを思えば、飲み残しのビールを飲むなどは、まだまだ可愛い部類だと言うべきか。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1652005

 白靴の埃停年前方より来

                           文挟夫佐恵

語は「白靴(しろぐつ)」で夏。「前方」には「まへ」のルビあり。私は停年を経験していないが、わかるような気がする。一日働いて帰宅し靴を脱ぐときに、うっすらと埃(ほこり)がついているのに気がついた。白靴だからさして目立たないとは思うけれど、その埃を言うことで、日中働いてきた作者の充実感と、伴ってのいささかの疲労感を象徴させているのだろう。そんな日々のなか、だんだん停年退職の日が近づいている。ついこの間までは、まだまだ先のことだと思えていたのが、最近ではどんどん迫ってくる感じになってきた。停年の日に向かってこちらが歩いていっているつもりが、なんと停年のほうからも自分に歩み寄ってくる。それも「前方より」というのだから、有無を言わせぬ勢いで近づいてくるのだ。玄関先でのほんの一瞬の動作から、呵責ない時の切迫感を詠んだ腕の冴え。あるいはまた、この白靴は自分のではなく、ご主人のものだとも解釈できるが、そうだとしても句の冴えは減じない。いま調べてみたら、掲句は作者五十代はじめの句集に収められていた。昔の停年は五十歳と早かったので、ううむ、どちらの靴かは微妙なところではある。『黄瀬』(1966)所収。(清水哲男)




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